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中西美沙子のロシア・フィンランド紀行

ネヴァ川 
 2008年6月
 バルトの国は、濃い緑に包まれていた。フィンランドのヘルシンキを経て、目的地であるサンクトペテルブルグに着いたのは、夕刻6時半。白夜のこの季節は、真昼のような明るさだった。
 私の目的は、「日本文化」について、サンクトペテルブルグ工科大学でレクチャーをすること。極東という地誌が育んだ日本の文化の特徴を、私はテーマに選んだ。日本語の派生から、仏教の日本的な変容を「枯山水の庭」に託して講義しようと考えたのだ。
 大学は郊外にあるためか、主催側の配慮で、講義はネフスキー大通りにある日露協会の瀟洒な建物のレクチャーホールで、行われることになった。ネフスキーは、日本の銀座通りといってもよい美しい通り。王朝を偲ばせる石造りの建造物が軒を連ね、今という時代を忘れてしまうほどだ。
 講義は、若い世代から年配の方々までが、熱心に耳を傾けてくださった。後のディスカッションの時間。質問が相次いだ。「古事記のアマテラスの岩戸篭りが、日本語の『面白い』という言葉の語源ではないか」「禅とはどんな教えか」など。一言では答えにくい質問も多く、日本に対する関心の深さが実感された。
 
 「私は毎年、下田に行くのです」。講義の後、一人の老婦人が声をかけてきた。手には彼女が描いた日本の風景のカレンダーがあった。私にプレゼントしてくださると言う。そこには下田の神社や桜の老木などが丁寧に描かれていた。彼女の筆のタッチに、私は親密な「目」を感じた。帰国後、彼女が下田で絵を描いている記事をA新聞で見た。下田は、日露和親条約が結ばれた地。そして彼女、マクシーモバさんは、昨年7月、当時の麻生太郎外相から文化交流の功績を表彰された方でもあった。

大学関係者と領事館通訳エカテリーナ
  ロシアは社会主義体制が崩壊してから、急速に経済を立て直した。日本を含め多くの外国の企業もこの美しい芸術の都サンクトペテルブルグに参入しており、またしつつある。街を通る車に、日本の車が目立つ。ポスト・アメリカの気配をこの街に感じるのは私の思い込みだろうか。
 私の講義の翻訳とガイドをしてくれたエカテリーナが、「先日、『スズキ』の調印式で通訳を務めました」と言っていた。彼女は日本の領事館に勤務する日本通。美しい日本語を話すエレガントな淑女だ。彼女の父君は、大学と、ロシア科学アカデミー(科学技術院)の教授で、かつて私の夫と共同研究をしたこともある仲だ。異国で聞く彼女の滑らかな敬語は、日本語の持つたおやかな響きを伝え、それは白夜の街とともに、ロシア滞在の最上の土産となった。
 エカテリーナの案内で、エルミタージュ美術館をまわった。街をゆったりと流れるネヴァ川に沿って美術館はある。白と淡い緑とのコントラストが清楚な雰囲気を醸し、館内は、白亜を象徴するように黄金色がふんだんに彩色されている。
 エカテリーナ女王が収集した美術品は、古代から近代絵画まで幅広い。「美を極める」とよく言うが、美の神が混乱するほどに美術館には上質なものが溢れている。「美しきもの見し人は」の言葉の如く、数多の美を集めることに囚われた女王の末裔たちは、悲惨であった。王政を倒した「十月革命」の舞台がエルミタージュであったことを、私は思い浮かべていた。エカテリーナ女王の「熱狂と悲劇」を思いながら、私はエルミタージュの絢爛たる回廊を巡った。
 
 サンクトペテルブルグは北極圏に近い。白夜の短い夏が終わると突然、秋と冬がやってくる。そんな風土のせいか、どこか「憂い」のようなものをこの地に感じてしまう。
 「白夜」は、人を不思議な精神状態にする。時の折り目の喪失がもたらすものは、デラシネの「浮遊する魂」のような感覚であった。シャガールの絵に、浮遊する恋人たちや花々、教会や牧場がよく描かれている。ユダヤ系ロシア人であった彼も、ロシアの白夜を知っていただろうと、薄暮れの通りを歩きながら思った。近頃、なぜか日本で流行っているドストエフスキーにも「白夜」という短編がある。白夜の夜に出会った恋人たちの物語である。恋が成就しようとする瞬間に、男が失恋する悲劇仕立てになっている。白夜に、作家は失望というイメージを重ねていたのだろうか。

マリンスキー劇場で(ゲルギエフ指揮)音楽会
  サンクトペテルブルグは、音楽に満ちた街だ。白夜という眠らない時を、そして長くて暗い冬という時を埋めるように、音楽会が何処かで、毎日、開かれている。
 短い滞在中に、私は毎夜、音楽会やバレーに招待された。有名なマリインスキー劇場で、ストラビンスキーのバレー組曲を観た時、指揮がゲルギエフであったのに驚いた。通常なら、半年待たなければ手に入らないチケットなのに。ゲルギエフの指揮による「火の鳥」は、白い闇を揺らすように情熱的な音色を奏でていた。
 浜松は「音楽のまち」を標榜している。国際的なピアノコンクールが開催され、音楽に接する機会も多くなった。でも市民の文化への関心の深さは、どうだろうか。サンクトペテルブルグでは、音楽の会場には勤め帰りや普段着の人たちの姿も多く見られた。音楽を、構えて鑑賞するのではなく、日常の延長として愛でる文化が根付いていることに、驚きと羨望を感じた。
 余韻の中、私たちはネフスキー大通りを歩いた。時刻は11時を過ぎていた。真っ直ぐに、ロシアの大地に連なるように伸びた通りには、人々の「文化への憧憬」と「未来への希望」を象徴するように、白夜の明るさだけがあった。

 

■ロシア フォトギャラリー (クリックで拡大表示します。)

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■フィンランド・ヘルシンキ風景 (クリックで拡大表示します。)

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