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文学としての浜松  ――藤枝静男私記――

「風紋のアンソロジー」
浜松文芸館 2009年出版 より

 藤枝静男の作品に、「悲しいだけ」がある。読むと、いつも複雑な感慨に染まる。
 妻の遺骨を、妻の大好きだった大原美術館の庭に埋める行為と、その顛末が描かれている。藤枝は、美術館の庭に遺骨を埋める交渉を館員にする。当然、願いは拒否される。その対応に藤枝は不満を抱き、強い反感を秘めて「二度と来ない」と心に誓う。
 「悲しいだけ」には、「情」と不即不離な作家の姿が端的に表れている。冷静であれば、公的な場所に、私的なものとしての遺骨を埋める行為は生まれないだろう。恨みを残すほどに取り乱した藤枝の姿に私は、非常識という裁断ではない別の感覚を持つ。その作品が含んでいる、人としての根源的な実存に親近感を抱いてしまうのだ。
 好んで彼は、家族や身近な場所を選び、小説に書いた。藤枝を有名にした「空気頭」には、浜松の地が描かれている。グロテスクとイロニーに彩色されたこの小説の魅力は、浜松の地が、人間の呼吸のように湿気を帯びて語られているところだろう。
 藤枝静男の目は、「眼球」という表現が適切な感じで、ギョロっとした威圧感があった。その目は、「或る官能」を感じさせる。彼の小説を読むと、浜松という平凡な土地が官能を帯びた場として立ち現れる。それは、彼の中にある「生存」への憧憬と、「場」への強い感受性があるからだろう。
 『近代文学』の集まりが、時々浜松であった。杉浦民平、平野謙、埴谷雄高、本多秋五、大庭みな子などの文学者が、弁天島の旅館で歓談した。藤枝静男は『近代文学賞』の、匿名の賞金提供者でもあった。作家たちは本名の「勝見」と言う名で、親愛をもって彼を呼んでいた。その中でも、『早稲田文学』の編集長をしていた立原正秋は、藤枝静男に丁寧で礼儀正しい口調で話しかけていた。売れっ子の作家が、藤枝に対し「畏怖する思い」をもって接している姿が印象に残っている。
 藤枝静男は、天体のような存在であった。個性的な惑星が彼を彩っていた。私にはその天体のあり方が、長く謎であった。藤枝静男の文学的営為は、評価に足る素晴らしいものがある。が、他の作家たちの方が、文学史に消えぬ傷痕を残すだろう。それであっても、彼のもとに集う魅力は何であったのか。藤枝の吸引力とは、何なのだろう。
 「地方」という場所で、眼科医を営みながら「文学」を刻む人間に、中央の作家たちが、どんな思いを抱いていたのか、私は思いをめぐらす。作家たちは「書くこと」で生計を立てる。「書くこと」の必然を苛烈に生き、摩滅する人でもある。藤枝静男の文学は「余技」としての文学ではないかと、私は考える。しかし同時に、彼の文学は摩滅することのない別の文学のあり方を、私に示唆する。
 藤枝は、「故郷」という土地につよく執着していた。家族と、それに関わる生と死の営みへの思い。それは色濃く、作品に影を落としている。
 東京に住む作家たちの多くは、「故郷喪失者」と言ってもよい。根無し草の中で言葉を紡ぎ、不安の中で表現する者たちでもある。極論すれば、ある意味で「家族」という絆を捨てた人たちでもあるのだろうか。藤枝の文学と人物は、「故郷」と「家族」とで作られたものだ。そして師である志賀直哉直伝の「自我」が、絡み付いている。
 多くの作家たちは藤枝静男に、自分たちが失ったものを感じ、安心したのではないのだろうか。
 浜松は「文化不毛」の地とよく言われる。そうであろうか。この地には、藤枝静男のような作家を、肯定したり退けたりすることを怖れる何ものかが、水のように浸透している。その恐れを拭えば、文化は蘇生するのではないだろうか。
 「食を得ること」と「表現」は、双子の兄弟である。どちらも人の生に価値を与える。労働と自由の親和を私たちが由とすれば、浜松は、表現の場としての固有の輝きをもって立ち現れる気が、私はする。
 晩年、藤枝静男を訪ねたことがある。その折、二幅の掛け軸を見せられた。一つの書には、「華厳」と顔真卿ばりの個性のある字体で書かれていた。藤枝の書であった。他は記憶が定かではないが、「浄土」と書かれていた。その書は上司海雲のものであった。
 「どちらが良いね」と彼は訊ねた。私は迷うことなく「華厳」を褒めた。嬉しそうに微笑みながら藤枝は、「この軸の表具は何だと思うね」と、遠い眼差しをしながら問うた。「小紋ですね」と私が答えると、「妻の着ていた着物だ」。そう懐かしむように呟いた。
 「悲しいだけ」は、極めて私的な詠嘆の書である。だが、或る普遍を感じるのは、「悲しみ」は人の最大の文学的な要素であるからだろう。

 

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