中西美沙子
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生きている時に抗して

田中愛莉(高1)

巨大な外国の「外国人」
 「自分を二重に見る」、ということが自伝を書かせるのでしょうか。
 私は、『福翁自伝』に強いドキュメント性を感じました。それは『自伝』の隅々にまで、「他人の目」で見る姿勢が貫かれているからです。『自伝』を読んでゆくにつれて、諭吉の意識の背後にあるものを確信しました。自己の営為に拘らない生き方、というものです。個人にとっての「事件」と「思惟」の織物のような記録を、普遍なものにしているのは、そこにあるのかも知れません。また『自伝』は、人の放つエネルギーで溢れています。それは諭吉の目が、「理想」の方にのみ向くのではなく、平凡な日常の中で生きている人々の傍らに落とされているからでしょう。理想とは、そのような営みによって育まれるのだと、この夏、私は知りました。
 『自伝』を読みながら私は、諭吉が日本という「内なるもの」と、文明国であった国々「外なるもの」との間で、格闘した姿が鮮やかに残りました。そして、自分には「内なるもの」も「外なるもの」への認識もないことに、気付いたのです。私は、拠り所とする場所の喪失の中で生きていた、と言ってもいいでしょう。そして「外国人が『福翁自伝』を読んだら」の「外国人」は、私ではないかと思えるのでした。
 日本と関係の強いアメリカ、「巨大な外国人」を視野に入れて、米大統領候補バラク・オバマが、『福翁自伝』を読んだとしたら。そう考えながら、『自伝』を読み進みました。
現在、アメリカは混乱と疲弊の只中にいます。混乱した価値観と疲弊した世の中にこそ、それを変えようとする人物が生まれます。「希望の種を蒔く人」です。明治維新を生きた福沢諭吉も、そのような人物の一人でしょう。時代は遠く隔たっていても、私はオバマにもそのような人間を感じていました。
 アメリカの黒人について、調べたことがあります。黒人の歴史は、過酷な労働と差別で彩られています。調べてゆく中で一冊の本に、出会いました。オバマの著作『合衆国再生』は、アメリカの再生を模索した本です。
 「黒人のアメリカも、白人のアメリカも、ラテン系のアメリカも、アジア系のアメリカもない。ただアメリカ合衆国があるだけだ」。オバマの2004年の民主党全国大会の言葉を知った時、私はオバマに魅かれました。この一際心に残る言葉と、『自伝』に漂う「変革」のイメージを同じものと感じたのです。
 9・11のテロから、アメリカは羅針盤のない船のように、世界を混乱の渦に巻き込みながら彷徨っています。アメリカは日本にとって巨大な力を持った「外国人」です。
 その巨人を操る大統領が変わろうとしている。バラク・オバマは、黒人というアメリカの中の「外国人」を生きてきた人間でもあります。『合衆国再生』は、アメリカという「内なるもの」への変革を意識しています。

「動く目」と「共感(エンパシー)」
 『福翁自伝』の語り口からは、饒舌で情熱的な感じを受けます。しかしその熱は、冷静な目だけではなく、あらゆる事象に肉薄するような「動く目」からやってくるようです。「世の中に怖いものがない」とさえ言い切り、幕府の外務省翻訳局にいながら、攘夷論を唱える幕府を「叩き潰してしまうが宜いじゃないか」と言えるのは、どんな時でも、「今、何が必要か?」という動的な目で時代を見ているからでしょう。
 オバマは、人の立場になって考える「共感」を政治に反映させようとしています。彼が言う「共感」とは、他者の気持ちになって考えることを指します。「共感」を持つことが、社会で苦しむ人々に利益をもたらすと、オバマは書いているのです。またどんなに意見が食い違っても、オバマはジョージ・ブッシュの目で世界を見ようと努力する義務があると書きました。「ブッシュの目で、世界を見る」。この言葉に私は矛盾する二つの驚きを感じました。その驚きとは、価値観が違う者の目で見る勇気と、「言葉の効果」としてのアピール性です。他者の思いを汲むこと「共感」は、素晴らしい言葉のように感じます。でもどこか、リアリティーのあるものとしては私の心に届いてきませんでした。
 『福翁自伝』は、自分が触れ合った人々や出来事を、諭吉の目でつぶさに拾い集めています。時代を生きる人たちの匂いで溢れています。そこには考えに先立って、存在する人間への慈しみがあるようです。福沢の多くの著作が今もリアリティーを持って読まれるのも、「人への眼差し」ではなく、「人の坩堝の中に存在する」人間の姿としての福沢が、いるからなのでしょう。「目が動く」というイメージを私が『自伝』から感じるのは、そんなところにあります。理想に固定されずに、変化し続ける諭吉の姿がそう思わせるのかもしれません。オバマには理想を語る言葉があります。しかしその言葉を裏付けているはずの「人間の姿」が見えにくいのです。それは、アメリカという「国」への彼の拘りが、アメリカ「国民」への思いより強いところからくるように思えるのです。そして同時に、過度な自国への拘りは、世界に紛争や戦争の火種を撒くものに繋がってゆくのでは、という思いも持ちました。
 『自伝』には、既成の価値観に「拘らない」諭吉の姿があります。その好例を、諭吉の母が、チエと呼ばれている女乞食の虱をとり諭吉に潰させる場面に見ました。身分差別の強かった時代を生きた人と考えると、諭吉の母の行動は破格だったでしょう。少し荒っぽく、やんちゃな性格の諭吉の言動は一見、向こう見ずのように思えますが、そこに彼の「拘らない」精神の芽生えを感じます。
 私はオバマに、「良い子」のイメージを感じてなりません。そのようなイメージはアメリカという国が求めているものかもしれません。『自伝』は、行動の書でもあります。理想を形のあるものに変える動的なイメージに満ちています。理想が行動に先立ってあるのではなく、同時にあることが分かります。

「停滞」を越えて
 諭吉がアメリカやヨーロッパに旅立ったのは、日本の中にある「大きな停滞」に気付いたからだと思います。『自伝』を読むと、少々西洋びいきで、中国や朝鮮を下に見るところもありました。「シナ人を文明開化に導くなんということは、コリャ真実無益な話だ」。現代であれば問題発言でしょうが、諭吉の「アジアの停滞」への不満を素直に表したものと受け取れます。諭吉はアジアの停滞を、日本だけでなく中国や朝鮮にも見ていたからでしょう。アジアの停滞を「内なる停滞」と認識していたのです。尊皇攘夷が国内で叫ばれているさ中、彼は外へ外へと、夢を膨らませてゆきました。価値観の決まった思想に拘泥することなく、彼は新しい考えを取り込んでゆきました。内に留まるのではなく外へ向かう彼の視線には、再び内なるものへと向かう意志が見えます。それは日本国家へと注がれる視線だけではなく、国際人として生きる日本人を視野に入れた姿です。
 オバマが『自伝』を読んだとしたら、彼は気付くかも知れません。自分がアメリカという枠に拘泥している、と。『合衆国再生』には、妊娠中絶、尊厳死、最高裁の構造改革など、国内向けの政策が中心に語られています。これらの問題も重要です。しかし、テロの背景やイラク侵攻から見えるアメリカを捉える力は弱いと思えるのです。それはアメリカという国家に囚われすぎて、「他国」から自国を見つめ直すことをしていないからです。彼の「共感」は、アメリカという国に留まっていると感ずるのです。
 明治維新と現代アメリカの状況が似ているとしたら、江戸幕府もブッシュも、「内なる価値観」に囚われていることです。その意識は、オバマにもあると私は考えます。諭吉が、『文明論の概略』で、「或は文明の極度に至らば、何等の政府も全く無用の長物に属す可し」と断言した言葉の真意は、多様性と進化し続ける文明を失って、自国の価値観に固まるような国への批判であったと思われます。
 オバマが『自伝』を読んだら、一番先に心動かされるのは、世界を横断的に眺め、そこにある知識や文明を何の戸惑いもなく吸収する姿と、教育にかける諭吉の思いでしょうか。
 諭吉は、慶応義塾が存亡の危機にさらされた時、学生に、「慶応義塾は日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日とも休業したことはない、この塾のあらん限り大日本帝国は世界の文明国である、世間に頓着するな」と励ましたことがあります。ここには教育にかける諭吉の意気込みがあります。諭吉の求めていたものが、「世間の目で見た」尊いものではなく、自分の信念に忠実に生きることだと分かります。「世間に頓着するな」は、「教育」の原点のように思えるのです。世間の動きや思惑に束縛されず、教育への志を貫く諭吉の姿勢がここに見えます。「教育」が、人間や文明の土台であることを諭吉は生徒に示したかったのでしょう。
 オバマも教育について「揺れない信念」を誓っています。彼は、「アメリカ建国以来、教育は、国と国民が結ぶ契約の中核にあった」と論じています。教育が持つ力への思いは、諭吉と似ていると感じます。しかし、「国と国民の契約」という考えの中には、アメリカのナショナリズムがありはしないか。諭吉の教育観には、国家より先に人間がある。人間の可能性を優先させることによって、世界や国は既成の考えに固定しないで、流動的に、より良い体制を作るのだと言っているように思えるのです。「世間に頓着するな」は、まっさらな目で世界を見ようということだと思えます。『自伝』を読んだら、オバマやアメリカ人の多くが自国に対し、余りにも求心的であることに気付くでしょう。

政治を逃れて
 諭吉は生涯、政治を避けました。『自伝』の「政治の診察医にして開業医に非ず」と「明治十四年の政変」の章を読むと、諭吉が政治を意識的に避けた意味が分かります。本来は国民や国家に向かうべき政治家が、権力や野心に心を奪われた様子が書かれています。「コンナ連中に心を寄せる筈はない」と言う「コンナ連中」は、現代の政治家にもいるでしょう。諭吉は、「始終我身の行き先ばかり考えているようでは修行が出来なかろうと思う」と考える人です。政治は妥協の世界、とよく言われます。諭吉のように、時代に抗してきた人間にとっては、妥協は、耐え難いものであったでしょう。
 オバマは弁護士を目指し、ハーバード大学法科大学院に進みました。人々の役に立つための「学び」を選んだのです。その学びは、諭吉が避けた政治家への道につながっていました。
 政治家はオバマの言葉を借りれば、「とてつもない頑固者やどうしようもない見栄っ張り」から、「いっしょにいて素晴らしく楽しい人たち」までいます。政治について、私はよく分かりません。けれど、政治の魅力は「不完全な」人間が集まって作っていることだけは分かります。それは、「完全な世界」を模索するには必要な条件かもしれません。オバマの言う「不完全な人間」としての政治家は、諭吉が見ていた政治の世界とは違い、政治家を理想化しているように思えます。
 「不完全な人間」が「完全な世界」を模索することの好例が、『自伝』には溢れています。『自伝』を書く諭吉の目は、思考して行動して決断して、ある時は傷つき、不埒で大胆で、時代に聡くて嫌悪を剥き出しにする人間を、在るがままに見ています。ここには「不完全な人間」の輝きがあります。政治の中に生まれる権力や野心という不純物を除いた、未完の人間がそこにはいるのです。諭吉の『自伝』は、「進行形」の形で理想を掴まえようとする人間の姿勢を教えているようです。
 オバマも、「自分の前にある祝福に感謝してそこで満足することができない」と、自分自身の在り方を語りました。今、彼が望む社会は「共に生きる」社会です。あらゆる人種が共存する社会です。格差社会やテロ攻撃の中、アメリカも日本も、世界中が生きにくい社会へと変化しました。『自伝』を読み終えた時、オバマは言うでしょう。「アメリカは、世界は、まだ成長過程にある。『希望の社会』を掴むことは可能なのだ。Yes, we can」。

国家を超えて
 福沢は『文明論の概略』で、「都て世の政府は、唯便利のために設けたるものなり」と語りました。国家を動かす政府を、「唯便利のため」と言い切る諭吉の国家観は、過激ではありますが彼の理想を言い表しています。
 今、世界は「グローバリゼーションの波」に晒されています。経済を中心にして、世界は距離を喪失しかかっています。しかしその世界は、アメリカ的な世界です。高度に進んだ消費文明による「世界覇権」なのです。
 オバマは著書で、「私の心はこの国への愛に満ちている」と、アメリカに対する親愛感を示しました。諭吉の素晴らしいところは、国家や政府などの持つプライドを無視しても、「人間の幸福」への道を、合理的に突き進めるところにあります。プラグマティズムの先駆者であるアメリカ人より、先鋭化していると言っても過言ではないでしょう。その行動は「愛国心」ではなく、「人間の幸福」の方へと向けられていると思います。オバマは愛国心を、著書や演説で打ち出します。アメリカ人は「愛国心」を好む国民のように思われます。それは多民族国家だからではなく、「不安」をいつも持っている国だからでしょう。その不安は、文明や文化の古い地層を持たないところに生まれると思えます。存在を包み込む、目に見えないものの不在。ですが、そのコンプレックスは産業などの活力に変化し、「愛国心」となってアメリカ人の根拠を作ってゆきました。現在のアメリカは、巨大な体を持て余した怪物のように見えます。アメリカ人は異常なほど国家に執着していると思われます。「人間の幸福」よりも先に国家があるように思えてならないのは、なぜでしょうか。国家があってこそ、「人間の幸福」が実現できるという考えの限界が、オバマにもあるように感ずるのです。
 諭吉は日本を愛していたはずですが、憑かれたように「文明」や「思想」を外へと求め続けたのは、「愛国心」という閉じられたもののためであったとは思われません。「教育者」であることに徹した諭吉の視野の先には、国という枠を離れて、世界人として生きる日本人の姿があったように思えるのです。『学問のすゝめ』に「日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月をながめ・・・・・・」という言葉があります。ここからも、彼がどの国も同じと考え、世界をひとつの集団と捉えていたと感じます。国や政府は、国民の幸福を目指すためのシステムに過ぎません。そのシステムに拘泥するのが、政治家や官僚です。その権力に囚われるのも政治や行政です。
 オバマが『自伝』から学ぶとしたら、アメリカという権力装置をアメリカ人だけでなく、様々な人種や宗教と「共感」し、世界のために使うことの意味でしょう。それができるとしたら、今あるアメリカ的価値観を捨てて、新たな価値観を創造することではないか。『福翁自伝』は過去のものではありません。囚われた価値観を捨て、行動し、理想の何物かを模索することは、今の時代が失ったものです。

外国人が『福翁自伝』を読んだとしたら
 外と内とを分ける境界線が見えなくなった現代。情報網の発達で、世界は身近なものになりました。資本主義経済によって世界は動いています。その動きの中で、国と国との経済的な格差が生まれ、国固有の文化は無化されつつあります。精神に作用する「時」や「場」が、経済の渦の中に飲み込まれようとしているのです。増殖を続ける経済は、歪んだエネルギーとして人を苦しめているのが現実です。人のための経済活動が、人を圧迫しているのです。
 「国家」はある意味、「悪」を含んでいます。自国の国民の幸福を優先するシステムは、「排他的な行動」によって成り立つ傾向が強いからです。諭吉が『自伝』を通して語ろうとしたものを推し進めてゆけば、「国家」の終わりが見えます。自分の生きている場所の特異性、文化による境界線が、国境に取って代わると思えるのです。
 アメリカは、アメリカ原理主義によって世界を均一なものにしようとしています。アメリカの経済や文化を、絶対的なものとして他国に干渉するシステムが、内省されることなく機能しているのです。アメリカが敵としたイスラム原理主義が「神の意志」を根拠にするのと似て、アメリカは「神なしの原理主義」をひた走っています。その原理とは「経済至上の神」です。
 『福翁自伝』が語るものは、アイデンティティーの固定化ではなく、柔軟に変化するものへのオマージュです。これは国や人間にも当てはまるものです。巨大な外国人であるアメリカが、『自伝』を読んだとしたら、「恐怖」を感じるでしょう。オバマの「変革」はアメリカの現在的な変革でしかないからです。『自伝』の中にある「変革への意志」は、枠なしの変革と思われます。「社会の時候が有りのままに続けば、その虫が虫を産んで際限のないところに、この蛆虫すなわち習慣の奴隷が、不図面目を改めるというには、社会全体に大いなる変革激動がなければならぬと思われる」。諭吉のこの言葉が示すものは、極論かも知れませんが、「変革を求めるその生き方こそが人間である」と言っているかのようです。  
 彼の思想を実現するには、これから先、何世紀もかかるでしょう。それは私たちの立脚する「時」や「場」への思いが、余りにも小さすぎるからです。その小ささは、「生きている時に抗して」生きた、諭吉のような生き方を見失ったところにあるのだと思えます。私は自分を包む価値観や生きている社会に、疑問を余り感じていませんでした。全てが受身だったのです。
 私は『自伝』から、どこで生きて、何を成すべきかを支えるものは、「内なるもの」と「外なるもの」を知る力だと知りました。
 諭吉を稀有な人間として評価するのではなく、「生きている思想」として、私たちは咀嚼し続けなくてはならないでしょう。『自伝』が未完の書物と思えるのは、私たちが「余白」を未だ埋めていないと考えるからです。
 諭吉は、「内なるもの」にも「外なるもの」にも拘りません。それはその二つのものに囚われることを、「文明の停滞」と感じたからだと考えます。 
 「生きている時に抗して」生きることの意味を、私は『福翁自伝』に見ました。そして「私」を活かすものは、「内」と「外」という思惑を離れて行動する、その行動そのものにあるのだと知りました。


慶應義塾大学 主催
第33回 「小泉信三賞全国高校生小論文コンテスト」
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