中西美沙子
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古典を巡って

柏木絢也子(高2)

古典とは何か
 思想家の丸山真男は、『「文明論之概略」を読む』の序で、古典を読み古典から学ぶことの意味は、自分自身を現代から隔離することにあるのだといっています。「隔離」は「逃避」を意味しているのではなく、積極的な努力を意味しています。私たちの住んでいる「現代の雰囲気」から意識的に自分を隔離することによって、現代の全体像を「距離を置いて」観察する目を養うことができるというのです。
 私にとって古典といえば『竹取物語』や『更級日記』、『源氏物語』など、学校で習った古い時代の物語を思い浮かべます。古典の授業では主に文法を学び、わからない古語は辞書で引いて調べ、最後に原文を現代文に訳します。一つの物語が終われば、また次の物語の訳を作ります。古典が丸山のいう「隔離」でも「距離を置いて」という意識でもない、古典の理解の仕方が作業化しているに過ぎません。文法を学ぶことについても、テストのために覚えているだけと思えてなりません。しかし多くの学生は、古典はそのような学問であると思い込んでいて、疑問を感じないのです。
 丸山真男は福沢諭吉の『文明論之概略』を読み解き『「文明論之概略」を読む』を書きました。「福沢諭吉という人物は、『最新流行』の思潮から見ると、必ずしも評判のよくない思想家だったようだ」と丸山は、その当時の福沢に対する風潮に関心を持ちます。丸山は、その風潮を逆手にとりました。
 「古典の古典たる所以をきわ立たせるためには、現代流行していない古典、もしくは不評判なテーマに関わる古典を例にとるのがかえって適切だ、というのが私の考えです」と、書いています。丸山は、「最新流行」の思潮から離れていたからこそ、『文明論之概略』が古典を学ぶのにふさわしいと考えたのです。福沢の思想は、ある意味ではその時代、「古臭い」と思われていたのかもしれません。ですが丸山はこう書いています。「近代日本の政治と社会を考察するうえでの精神的な糧となったような、日本人による著作はほかになかった」と。丸山は、この福沢の思想が明治時代にも現代にも共通して必要であると理解していたようです。たとえ、古臭いと思われたとしても、人々が生きていくうえで非常に重要な思想であると。
 古典は、作品が書かれてから何百年、何千年と時が経ってもなお、人々に読まれるというところに価値があります。ですが古いということだけに「古典」があるのではなく、現代を生きる人たちに示唆と霊感を与え続けるのが「古典」ではないでしょうか。そんな意味で古典は「普遍性」を持つ物語や思想書の意味かも知れません。丸山も、福沢の思想に「普遍性」を見つけていたのかもしれません。

古典を読みとく
 二冊の本から、古典の持つ意味を見つめてみました。夏目漱石の『道草』とソフォクレスの『オイディプス王』です。これらの作品にはどこか共通したものを感じます。それは人間がもっている限界と弱さ、そして宿命です。それらを言い換えれば「悲劇の物語」になります。その宿命を突き詰めたのが『道草』と『オイディプス』ではないかと思われます。
ソフォクレスはいくつかの悲劇を書いています。そのどれもが、宿命に翻弄される人間をリアルに描いています。
 「だが両の眼を突き刺したのは ほかならぬみじめなわし自身。
 げに目が見えたとて 何になったろう、
 見てたのしいものは 何ひとつないのに」
 「コンモス」(歎きの歌)の一説で、オイディプスの思いが最も表れている部分です。また、オイディプスはその後自分のことを「世の誰よりも憎まれた男」といいます。自分よりも不幸なものなどいない、という絶望に充ちた気持ちが伝わります。「見てたのしいものは 何ひとつないのに」という言葉は、世の中のすべてに絶望し、生きる意味を見いだせないオイディプスの思いを表しているようです。ここから窺えるのは「過酷な運命」をどのように受け入れるかということです。
 ソフォクレスの悲劇を読んで感じたものは、ソフォクレスもまた彼が描いた人物のように痛みを感受していたということです。オイディプスの言葉はより慎重に使われ、圧倒的なリアルさがそこにはあります。その痛みへの感受性があるからこそ、人の根っこにある本質を書くことができたのだと。
 ソフォクレスの『オイディプス王』は、人間の望みが神々によって打ち砕かれる物語です。ソフォクレスは、先天的に決められていて抗うことのできない人間に興味を持ったようです。
 テバイの王オイディプスは国に災いをもたらした先王の殺害犯を追及します。調べていくにつれて、それが実は自分であり、しかも産みの母を妻にしていたことが分かるのです。それを知ったオイディプスは自らの眼をつぶして光を断ち、王位を退いてしまいます。オイディプスは自らの両目を突くことにより自身の運命から逃れようとします。
 「その神は決して譲ることを知らぬ自然の必然力、死すべき人間に厳しい差別の自覚を強いる不死なるアルカイクの神々、人びとを恣(ほしいまま)に翻弄するホメロスの神々であって、陶酔的熱狂のなかに神との合一を許すディオニュソス神ではなかった」。ニーチェは自著の『悲劇の誕生』の中でソフォクレスのことに触れています。ソフォクレスの描く神とは、アルカイク的な神で、「自然の力」を象徴した神です。「自然の力」に翻弄されて抵抗もしないで悲劇の底に落ちて行く姿をソフォクレスは描きます。その『オイディプス王』に感じるものは、悲劇の純度です。
 この本を読みながら思ったことがあります。私たちがソフォクレスの悲劇に打たれるのは、物語の悲劇性だけにあるのではなく、宿命という抵抗しがたいものと「今を生きる私」は、同じ地平に立っているということです。古典はいつも新しい物語を紡ぐのだと思えてなりません。
 夏目漱石の小説は近代の小説家です。しかし彼の作品には、ソフォクレスの悲劇と共通するものがあります。
 『道草』を書いていたころ、漱石が「則天去私」、つまり天にのっとって私を去るというのが、感じ方の理想であると弟子たちの木曜会の集まりのときに語ったと伝えられています。「天に則して私を去る」ということは、運命に対して従順でありたい、また自然に振る舞いたいということを意味しているようです。
 『道草』は漱石の自伝のような作品といわれています。『道草』に、「則天去私」のように振る舞う登場人物が出てくるわけではありません。主人公である健三は、他人に対して優しくない人物として描かれています。現実の漱石も心の矛盾を抱えた人だったといえます。
柄谷行人は、『漱石論周成』という本で「健三をとらえた不安は、知識人としての不安ではなく、裸形の人間としての不安である。『帽子を被らない男』は、彼に『お前はどこから来たのか』という問いを不意に迫りはじめるのだ。私が思い浮かべるのは、ソフォクレスの劇『オイディプス王』においてあらわれオイディプスを不安にさせる予言者である。オイディプスはその予言者を黙殺し、また彼の出生の秘密にかかわった証人たちを黙殺することができたであろう。あるいは彼に『おれの素性を底の底まで探ってみせるぞ』という恐るべき意志がなければ、このことは明るみには出なかったであろう。健三にしても同様である」と書いています。当時は、男性が帽子を被るのは普通のことでした。
 『道草』は、幼年時代に養子にやられたさきの養父が、落ちぶれて主人公健三の家の周辺に姿を現すところからはじまります。健三が「遠い所」から帰って来て間もない頃、何時もの通りを歩いていると、かつて自分を苦しめた養父に出会います。しかし健三は知らん顔をしてその人の傍を通り抜けようとするのです。「健三はすぐ眼をそらして又真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色なく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた」と書かれています。健三は養父を十五・六年ぶりに目にしましたが、一目見て、養父が全く変わっていないことが分かります。さらに養父は帽子を被っておらず、身なりからしてよい暮らしをしているとは思えない様子でした。「帽子を被らない男」は、その後健三を「今の自分はどうして出来上がつたのだろう」という問いへと引きずり込むのです。健三の養父への思いが端的に表れた部分でもあります。「すぐ眼をそらして」という動作は、養父との関係をなかったものにしたいという思いと、宿命から逃れたいという意識があらわれているように思えます。
 「今の自分はどうして出来上がったのだろう」という問いは、「わたしはどこから来たのか。わたしは何であり、どこへ行くのか」という、自問自答する言葉です。これらの問いから感じるものは、生きていることの不安であったと想像できます。
 吉本隆明の『夏目漱石を読む』の中に、「じぶんが引きずっている過去をどんどん総ざらいにさらって、心のなかが透明になるまで書きあらわしてしまいたいといいましょうか、運命に従順になるための一種の自己浄化の作業として、『道草』が書かれたというふうにいえなくもないとおもいます」という一文があります。嫌悪に充ちた自分の過去を、もう一度振り返って自伝にするということは、辛いことであったに違いありません。客観的に過去を見つめることで吉本のいう「自己浄化」が行われていたと考えることができます。書くことは、漱石にとって自分の中にある嫌悪感を冷静に見る行為でもありました。
 『道草』を読むと漱石も、ソフォクレスが『オイディプス』で描いたアポロン神「自然の力」による悲劇を生きていたように思えます。しかし『道草』という小説の魅力は、そこだけにあるのではありません。吉本のいう「総ざらいにさらって自分を見る」という思いの強さです。自分がもっている感覚のすべてを作品として描くということは、凄まじい精神が求められます。その徹底さが、漱石の作品を古典にしているのだと思えます。『道草』を読むと、「裸形としての人間」が描かれていると思えるのです。自分を直截に裸で見つめて小説を書くことは、かなりの痛みをともないます。自分の体験とそこに生まれた生理的な感覚を冷静に文章化した『道草』に私が感じたものは、「遠近法のような世界」でした。漱石とその作品、それを読む私が重層的に重なり、透明な結晶体のようになった思いがしました。それは普遍的なもの、あるいは古典の体験であったともいえます。

文体について
 ヴァージニア・ウルフは、二十世紀初頭のイギリスの女性小説家、批評家です。彼女は『病むことについて』という本の中で『源氏物語』についての評論を書いています。しかし、どうして彼女は『源氏物語』の評論を書こうと考えたのでしょうか。
 本の中で、ウルフは「育ちよく洞察力と機知に富むこの静かな女性は、完全な芸術家だった」と式部のことを評価しています。式部に、「風やさびしい自然や、瀑布の音や、打球の遊びや、雁の群や、姫君の赤い鼻を愛でる心」があったことに、ウルフは魅力を感じます。素朴さを基調として物事を見た式部の感受性こそが「美しい世界」なのだと、ウルフはいっているようです。式部は物語の中に四季や景物、そして人の心の動きを、デリケートに描いています。心の動きと自然が別な次元にあるのではなく、同じ諧調にあるように見えたのでしょう。それをウルフは、日本の伝統だと考えたと想像できます。彼女にとって式部は、見たことのない「芸術家」として立ち現れたのだと思えます。
 私たち日本人にとって古典とは何でしょうか。その答えは、ヴァージニア・ウルフが『源氏物語』に惹かれたような世界観への眼差しと、日本の古典が持っている独特の文体を味わうことにあるのだと考えます。
 『源氏物語』の「手習」に、「その頃、横川に、某の僧都とかいひて、いと尊き人、住みけり。八十あまりの母、五十ばかりの妹ありけり。ふるき願ありて、初瀬に詣でたりけり。むつましう、やむごとなく思ふ、弟子の阿闍梨を、添へて、佛・經、供養ずること、行ひけり」という文があります。現代語訳と照らし合わせてみると、原文では曖昧な部分が明確になります。与謝野晶子の現代語訳で、一文目は「そのころ比叡の横川に某僧都といって人格の高い僧があった」になります。「いと尊き人、住みけり」と「人格の高い僧があった」という部分だけで比べてみると、助詞の「が」が省略されていることが分かります。また、「ふるき願ありて、初瀬に詣でたりけり」という文の主語である「母と妹」が省略されています。さらに「むつましう、やむごとなく思ふ、弟子の阿闍梨を」という部分でも、だれが阿闍梨を「親しくよい弟子」であると思っているのか分かりません。その文の主語の「僧都」は原文には書かれていないのですから。前の内容を踏まえて読むことができていれば、主語を特定することはできます。しかし、ある一部分だけを取り出して考えてみたとき、「書かれていない主語」を探し出すことはできません。古典が苦手だという高校生がたくさんいます。その理由は、このような主語の省略に戸惑ってしまうからではないでしょうか。また、多くの助詞が省略されていることで、「どこに係るか」を見失ってしまうのです。
 『源氏物語』だけではありません。他の様々な古典で、主語や助詞が省略されていることがあります。現代の文章に慣れている私たちは、なぜ主語や助詞が省略されたのかと疑問に思います。主語が書かれていれば何倍も分かりやすくなるのに、と。私たちがいう古典の文章と現代の文章との違いが明白になったのは明治維新後だといわれています。
 大澤真幸の『社会は絶えず夢を見ている』という本に、「『…は』の連発」という章があります。柳父章の『近代日本語の思想―翻訳文体成立事情』を取り上げ、日本語の文体で、主語を文頭に置くようになったきっかけとなる「…は」という文体の形式について書かれていました。そこで、書き言葉としての近代的な日本語の文体を代表する例として「大日本帝国憲法」の条文を取り上げています。「それ以前の日本語にはなかった特徴、これを読んだ当時の日本人が『異様だ』と思ったに違いない特徴がこの文章にはあります。(中略)柳父章さんは、『…ハ』で始まる文の連発、ここに新しさがあったと指摘しています」と大澤は書いています。今では「…は」という文体はあたりまえのように使われていますが、その当時の人々にとって、主語を文頭に置くという行為は不思議なことだったのかもしれません。
 明治から言文一致で小説が書かれるようになりました。「…は」という助詞が多用されるようになったことで、主語が何かが明確に分かるようになりました。「…は」という助詞には、指示性があります。「…は」が主語を導いていて、それがどこに係るかも、すぐに分かるからです。合理的に指し示す言葉というようにも感じます。かつて古典で使われていた文体には、このように指示性を示す言葉は希薄なようです。
 主語と助詞が明確になることで得たものと失ったものは何か。それは人間が持っている感性の変化ではないでしょうか。森鴎外や漱石の文章には、強い言葉の骨格があります。リアルな世界がそこにはあります。しかし失ったものは、「語ることのない」ものを感受する力です。古典に「助詞」や「主語」が省かれているのは、曖昧さを意図したのではなく、世界を暗黙の裡に了解する日本の文化があったのではと思います。
 「文体」が人間を作るのではないかと、この論文を進めながら考えるようになりました。
 加藤周一は『日本文学史序説』の中で、日本の古典の特徴をいっています。「『源氏物語』の叙述は、作者の客観的な描写と、登場人物の科白や歌、またその考えの内容の記述から成る。しかしこのような要素は、常に鋭く区別されているのではなくて、しばしば一文章のなかにむすびつけられている。そのために、文章の途中で主語を変え、しかもその主語をしばしば省略する文体が果たした役割は大きい」と。彼のいう役割とは、風景の感じ方や人の心の移ろい、華やかさと衰退をトータルに日本の古典は描いているところにあるのではないでしょうか。
 さらに加藤は「そういう文体の中で、自分自身を主人公と同定した作者の感想と、主人公その人の感想とは極限まで近づくことができる。ほとんど独立した挿話が多く挿入され、人物があらわれては消えてゆくにも拘らず、語り手の現在を強く感じさせる文体は、話の全体に持続感をあたえ、ほとんど仲間のうちの噂話に似た一種の親密感をつくりだす」と書いています。
 その頃の日本語は、主語の省略を由とする世界が存在したのです。日本人は繊細な感情や情緒を持ち合わせた民族で、物事を感覚的に捉える傾向があるといいます。その日本人の特色を象徴しているのが、古典の文体であると思えるのです。

おわりに
 「クラシック(classic)」は、ラテン語の「classici」に由来しています。「classici」はもともと「クラス」(階級)を意味する言葉でしたが、意味の転化により「最上の階級」を意味する言葉になったと考えられています。「クラシック」が「由緒のある」、「高尚な」という意味を含んでいるのは、最上級の表現である「classici」に由来しているからなのです。「クラシック」の語源をたどってみても、「古いもの」という概念はありません。
 「古典と現代」というテーマから、古典の持つ意味について考えてきました。「普遍性」を持つ作品が古典として現代に残り、それを読む私たちの思考や感性を築き上げているのだと知りました。
丸山真男のいった古典の意味は、「距離を置いて」観察することなのだと理解できるようになりました。誰かが作った価値観ではなく、古典を真っさらに見つめることで、本当の古典の意味が見えてくるということが。
 過去に書かれた作品が古典として残っていることには、意味があります。長い間ふるいにかけられても尚且つ残るというところに、その文学としての力を感じるのです。しかし、それらの文学がその後どうなるか、というのは私たちの意識の在り方によってどのようにも変化します。古典を過去の遺産として記念物のように眺めているのなら、古典には何の価値もありません。古典は過去の物語ではありません。古典は生きているのです。それを本当に活かすのは、私たちの古典への思いにかかっています。私たちが古典を読むことの意味を丁寧に見つけて、初めて古典は「クラシック」になり得るのだと感じます。

慶應義塾大学 主催
第39回
 「小泉信三賞全国高校生小論文コンテスト」
小泉信三賞 佳作作品

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