彼が見ていたもの

      居場所のない悲しみ

 「俺(おれ)、やくざになりたくないな」言いながら彼の目は、不安げに窓の外を見ていた。
 放課後。窓ガラスの向こうは、一面夕焼けだった。洋介(仮名)は指の付け根に触っていた。そこには入れ墨があった。私は、退学の決まった洋介の荷物の整理を手伝いながら、これからの彼の人生の困難さを思った。
 洋介は、教室にいることのできない生徒の一人だった。今、どこの学校にも、こういう生徒が増えていると聞く。教室は息がつまる、と彼はよく言った。「俺、学校の規則守れないから、仕方ないさ」。そう、彼にはごく当たり前の習慣やマナーが教えられていないのだ。本当はここにいたい、でも多分そうできない自分を、彼は知っていた。
 洋介は皆に恐れられていた。「キレると何をするかわからない奴(やつ)」のレッテルとともに、何人もの相手を病院送りにした伝説が、彼にはあった。いつだったか、遅刻して来た洋介が廊下の隅にうずくまっていた。私を見ると少しはにかんだように笑って、「熱帯魚が赤ちゃん産んでさあ、俺、心配だから見てた」と言った。私は洋介の中で激しく揺れ動く「優しさと凶暴さ」を、痛ましく感じた。その矛盾した感情は、彼の家庭の中にあった。
 洋介は、過去に母親から言葉と体の虐待を受けていた。言いなりの時期は必要以上にかわいがり、反抗しだすと虐待に走る親。それが彼の母親だった。だから、自我の芽生えが始まると同時に、彼の居場所はなくなった。中学ではほとんど学校に行かず、バイトをして、家に寄り付かなかった。暴走族や、行き場のない子供たちが集う場所が、彼の唯一の居場所だった。
 ここにいては駄目だという気持ちが洋介になかった訳ではない。しかしその気持ちを受け入れる場所は、どこにもなかった。普通の習慣が身についていないことがネックになっていた。そして、規則を優先する学校も、彼にはやはり居場所を与えられなかった。
 「お前なんか死ね!」日常的にそう言う洋介の母親を、だれもが悪く言うだろう。しかし親子のきずなを結べない親たちは、日本が、私たちが、物の繁栄に取りつかれて見失ったものの犠牲者なのではないか。そしてその現象は急速に、確実に、日本列島にまん延しつつある。日々報道される事件を見れば、自明のことだ。それへの特効薬など、あろうはずがない。あるとしたら、教育の場も、家庭も、自分たちに何ができるのかを、問い直してみることだろう。そこが始まりの第一歩なのだから。
 「先生、もう泣かんでよう。俺、これから働くからさあ」。それが彼の最後の言葉だった。だれもいない教室を振り返ると、そこには、夕日だけが残っていた。
 ふと、もういなくなったはずの生徒の顔が見えたり、笑い声が聞こえたりすることがある。彼らに何をしてあげられたのだろう、と自問する。ぬぐえない寂しさが心をよぎる。が、同時に、その寂しさの感覚がある間は、教師をしていてもよいのだ、とだれかが言っているように思えるのだ。

2001年10月13日掲載 <1>  

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