カーシャはおしゃべり

      言葉の「力」を知ろう

 「言葉を封印されること」と「自由に言葉を使える世界にいるのにそれを使う術を知らないこと」は、どちらも不幸なことだ。
 ポーランドのフローベルご夫妻から、クリスマスカードが届いた。電子メールの大きなカード。暖かそうな窓から見える、のんびりした雪の風景がきれいだ。アレクサンダー・フローベルは、ポーランドのアカデミーオブサイエンス(科学技術院)の教授だ。私の夫と共同研究をしている関係で、ご夫妻も私たちも、浜松とポーランドを行き来し、仲が良い。ウオツカを飲んだり、お喋(しゃべ)りを楽しんだりしている。カーシャはアレクサンダーの奥さんで、フィンランド大学の語学講師だ。
 最初の出会いの時、カーシャは無口で、どこか暗い影があった。その当時ポーランドは、独裁政治がしかれていた。何年かたって再会した時、カーシャが別人のようにお喋りで、陽気な人になっているのに驚いた。自由に語れることを、満喫しているかのようだった。その話しぶりの背後には、とても辛い過去が隠されていた。
 独裁の時代、不用意な言葉は絶対に禁物だった。政治や貧困の不満など、心で思ってもだれも言葉に出すことができなかったのだ。家族や恋人にさえ、本音を漏らすと『密告』され、逮捕されることすらあった。
 生徒たちに、カーシャの話をしたことがあった。言葉がどれだけ大切なものかを、知ってもらいたかったからだ。多くの生徒たちは、言葉が人の心や考えを伝えるのにどんなに重要なものか考えない。センテンスも短く、フィーリングだけで会話を成り立たせているようだし、性別や年齢差なども、お構いなしだ。
 私の話を聞いて、生徒たちは驚いたり、戸惑ったりしていたが、『言葉』の持つ多様な力を、どうしても感じ取ることができないようだった。
 カーシャは心の奥に封印されていた言葉を、丁寧に、また正確に語る。まるで愛する子供に接する時のように。私は、言葉を愛(いと)しいと感じることが自分にあっただろうか、とその時考えた。カーシャの、言葉に対する態度は、二度と言葉を失うまいとする意志のように思えた。
 生徒たちは今、自由に喋ることのできる世界に住んでいる。言葉を奪われることもない。だが私には、余りにも自由なために、言葉の大切さを意識できないのではないか、と思える。自由に語れるのに、言葉の大切さや力を知らないのは、悲劇だ。不用意な言葉で『いじめ』や『仲たがい』が起こるのも、そこに原因があるのかもしれない。
 正確で心のこもった『言葉』がなければ、子供たちの世界に起きているさまざまな問題は、解決されないだろう。

2002年1月12日掲載 <11>  

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