線、が引けない

        「あたりまえ」の感覚

 『あたりまえ』が崩れ始めている。バブルと例えられたころから、急速に一部の生徒たちに、異変が起こり始めた。どこの学校でもそのことが問題になっているだろう。
 危険な場所でも自転車の速度を落とさない。ところ構わず寝転ぶ。制服のまま男の子も女の子も、地面に座る。ガムを、時と場所を考えずにかんだり、吐き捨てたりする。目上の者に同世代と同じしゃべり方をする。食事を廊下や道の上でとる。
 『危ない』『寝る場所ではない』『汚れる』『迷惑』『敬う』という感覚が日増しに失われてゆく。もっと驚くことがある。注意を受けた彼らの反応、意識の在り方だ。「えっ、いけないの?」「どうして?」。大半の子供たちが自分のしている行動に、疑問を抱かない。むしろ怪訝(けげん)そうだ。
 そう。境界線は少しずつ、徐々に、見えにくくなっている。『線が引けない』というのは、自分がどのような立場や場所、そして規範の中に生きているのか意識できないことだ。飛躍して考えれば、いじめなどもそこに原因の一端があるのだろう。人の痛みと自分の痛みが区別できない子供が、抵抗なくいじめに走るのではないか。
 そのことを思いながら彼らと接すると、私たちが生きてきた世界が透けて見えることがある。今まで地域や家族、学校等で自然に教えられてきた『あたりまえ』の感覚。それが崩れ出しているのは、彼らをはぐくむべき社会そのものが崩れているのではないか、という思いだ。『線が引けない子供たち』の背後には、『線を引けない大人たち』が確実にいて、子供たちはその被害者なのではないか。
 あきらめずに『あたりまえ』の感覚の大切さを教えてゆこうと思う。私にはそれしか方法がない。見えないところで、努力している人たちがいることを信じながら。
 子供のころ、地面にチョークで線を引いてよく遊んだ。石蹴(け)りや「じゅんどろ」(巡査と泥棒ごっこ)。道路に白い線が引かれると、いつもの場所が違って見えた。そしてその線を介して、役割や順番が決められ、それぞれの役割を楽しんだ。
 そんな他愛のない遊びにも、『あたりまえ』の感覚をはぐくむ要素があったと思えるのだ。過ぎ去ってしまった時代を懐かしむことでは何の解決にもならないだろうが、ゆったりとした『時』がはぐくんだものを、考えるヒントにすることはできるのではないだろうか。

2002年3月2日掲載 <16>  

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