風、立ちぬ

      『めざめよ』と新たな歩

 大きな花束が自宅に届いた。私が学園を去ることを知って、かつての教え子が送ってくれたものだった。彼女は、今では少ない『苦学生』だ。『苦学生』なんて言葉、今の高校生は知っているだろうか。茨城にある大学から帰省する時も、彼女はバスや鈍行を乗り継ぎ、何時間もかけて帰ってくる。煮炊きも自分でする。研究の本も「高くて買えない」とぼやきながら、図書館を利用している大学院生だ。花束は、思い切り華やかなバラやカーネーションで彩られていた。つつましい家計からやりくりされた花束に、彼女の精いっぱいの気持ちが見えた。喜びが深く私の心を打った。この花束のお金で、あの子は何日食べられるだろうと思うと、一層胸が熱くなった。花には『風、立ちぬ。いざ、生きめやも』と書かれたカードが添えられていた。
 教師生活を送りながら私は、自分が組織に向いていない人間だといつも感じていた。友だちやジャーナリストや作家仲間にも、「君は教師には良いけど、学校という組織には向かない」と言われた。その言葉は『無防備』で、『清濁併せ呑む』ことのできない私の核心をついていた。そんな私が教師を続けて来れたのは、『生徒が好き』という思いがあったからだ。その思いの源をたどると、いつも浮かんでくる先生の姿がある。私が赴任した時、すでに長く教壇に立っていた女性の先生だった。万葉集を愛し、歌人でもあった。廊下を歩いている時、先生の声が聞こえてくることがあった。「めざめよ、めざめよ」。凛(りん)とした、格調ある彼女の声が、歌うように一定のリズムを持って響いてきた。「めざめよ。めざめよ」。緩んだ「時」が、やさしく固まり、生徒たちの瞳が輝くのが見えるようだった。その時、すがすがしい一陣の風が、私の中を吹いた。これから歩んでゆく私の道が見えるような気がしたのだ。その先生は、組織よりも生徒の方をいつも見ていた。「生徒が好き」という充足感がそこにはあった。私の憧れの先生だった。
 ずいぶん昔のことだが、私の耳にはその声が時折、聞こえる。行き詰まった時など。今考えると、『めざめよ』は生徒を啓発しながら、自分自身の心に問いかけていたのではないか、と思える。教師は、そうでなければならないだろうとも。
 私はこのコラムを書きながら、届いた花束を見ている。花の一つひとつが、教え子たちの目のように思える。その目は皆、笑っている。
 花束に添えられたカード。『風、立ちぬ。いざ、生きめやも』。フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一行だ。その言葉の「さあ、生きなさい。意欲と希望を持って。時は短くはかないのだから」という意味を感じつつ、私は新たな方へ歩を進めたい。「めざめよ」と心に問いながら。
 この秋には、『書くこと』と『読むこと』を教えながら『生きる力・考える力』を育てる私塾を開校するつもりでいる。再び、子供たちの方へ向かって。

2002年4月6日掲載 <21>  

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