I LOVE コンピューター

      『考える力』置き去りに

 健太は、変わっているのだろうか。彼はコンピューターの側でなくては、眠れない十七歳だ。彼はよく学校を休む。分身のように感じているコンピューターから離れるのが、苦しいのだ。無理やり家族に追い立てられて来た学校での健太は、不安なのか、しごく落ち着きのない眼をしていて、そのうち決まったように、ぐっすり眠り込んでしまう。いったん眠りについてしまうと、もうどんなに揺り動かしても、決して起きない。
 「風呂も着替えも、できなくて」と父親は言い、「寝るのもコンピューターのそばで伏せ寝なのです」と苦笑した。想像だにしなかった健太の日常を知り、私は驚いた。そして日本中に、何人もの健太がいるのだろう、と思った。
 子供は、いつだって、ひとつのことに夢中になる。その内、興味が別のものに移り夢中だったものを忘れてしまう。子供に対するそういう常識は、健太によって破られた。彼がパソコンにのめり込み、そこから離れられないのは、ゲームの興奮や刺激、ひとりでいるのが好きな性格、親との会話不足などが原因とは、もはや思われない。それらはきっかけに過ぎないだろう。
 コンピューターには、「NO」という抵抗感がない。求めれば、いつまでも答えを与え続けてくれる。まるごと子供を抱え込むのが本当の愛情と考えている親よりも、始末が悪い。そこには、「考える力を育てる」という過程が、すっぽりと抜けている。パソコンに向かっていると、考える能力はどんどん退化してゆく。人の脳の限界をはるかにしのぐ能力を、自分のものだと錯覚させる魔力がコンピューターには、ある。コンピューターファシズム、と言っても良いような世界だ。IT革命などと、経済の進歩を優先させるが、情報社会が子供たちの「考える力」を殺(そ)いでいる現実は、あまり語られてはいない。そこを考えないと、パソコンは、パソコンの良さよりも、子供たちにとって麻薬のようなものになるだろう。コンピューター依存症人間が増えるのではないか、大人の世界でも。心の痛みや優しさは、決してシミュレーションでは自分のものにならないし、「生きている実感」もどんどん稀薄になっていってしまうだろう。
 そういう子供の環境を、どう変えたら良いのか。「密室で疑似体験をする魔力」に対抗できるものは何か?それは案外、身近かなところにあるような気がする。私は考えに行き詰まったりすると、ベランダに出て、背伸びをしてみる。その時々の季節の風が、私の肌にじかに触れる。「そんなに肩ひじはらないで。楽にしたら!」とそれは告げているように感じる。そうすると私は、ああ、自分の生活スタンスに少し無理があるんじゃないかな、と気付き、ゆっくり、人となりでやってゆこう、と思うのだった。(この稿続く)

2002年4月13日掲載 <22>  

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