タヌキが来た日

      「他人の自由」の貴さを

 学校の在り方を考えさせられた事件があった。事件と言っても、思い出すとふっと笑ってしまう出来事だった。
 授業中に、窓際の生徒の誰かが叫んだ。「へんな動物がいる!」。皆がざわめき、窓は生徒の顔で鈴なりになった。私も叱(しか)ることを忘れて、生徒と一緒にテニスコートの方を眺めた。なぜか知らないが、生活指導課の先生たちが、その機敏に動く生き物を追っていた。つやつやとした毛並みの立派なタヌキだった。野生でないのは、その丸々と太った体から知れた。及び腰でそのタヌキを捕らえようとしている先生たちの姿も何だかおかしく見えて、不謹慎にも私は笑ってしまった。誰かが、「なんで生活指導の先生が追っかけてるのー?」と言い、別の子が「あいつも怒られるんじゃない、謹慎とか」と言った。どっと笑いの波が起こった。その笑い声が聞こえたのか、コートの先生が怒った顔で、「ちゃんと授業にもどれ」と大声でどなった。真っ先に見ていた私も首をすくめて、生徒たちに席にもどるよう促した。その日は一日中、その話題でもちきりだった。「ね、見た?」「うん。見た見た」「見たぞお、おれも」。職員室も教室も、どこか明るい雰囲気が漂っていた。
 イギリスの作家、G.オーウェルが、「自分を育てたのは学校だった」と書いている。彼は『カタルニア賛歌』という本で、スペインの片田舎の人々が独裁者と戦って敗れた歴史を、痛切に語った。カメラマンのキャパや、『誰がために鐘は鳴る』のヘミングウェイも参戦した戦いだった。その彼が『他人の自由』に関心を持ったのは、学んだ学校の、徹底した『管理教育』への反発があったからだと言っている。そして彼は、『すべてを規則で縛った教育』が、どんなに人の心を傷つけるかを警告している。正義や自由の気風はそんな処(ところ)には生まれないのだと、言外に匂(にお)わせてもいる。ただ、ただ心をゆがめるだけだと。
 もともと学校は、『管理』として在る。時間の拘束や校則。単位の習得に必要なきまり等々。だがそのことは、どれだけ「教えの場」で意識されているだろうか。
 現代を生きる子供たちは、自由と身勝手の区別がわからない傾向がある。しかしだからと言って、『規則と罰』のみで事にあたろうとすれば、それは心の崩壊を導くのみだ。ルールを教えることは大切だ。しかし問題解決のために『規則と罰』をふりかざすことの弊害を、私は恐れる。そしてそういう恐れを持つ先生や学校だけが、規則を守る意味と『他人の自由』の貴さを教えることができるのではないか。
 タヌキがやって来た日。私は学校を流れる『管理』の時が破れ、『解放感』と溶け合う実感を知った。『管理』と『自由』が、違和感なく共にある学校を感じたのだ。
 後で、捕らえられたタヌキを飼い主のおばあさんが乳母車で迎えに来た話を聞いた。その後日談を生徒に語りながら、私は生徒がいつかまた苦しい時に、そのやわらかな情景をふと思い出すだろうと感じた。そして学校への嫌悪がもう一人のオーウェルを生み出すよりも、学校への親しみから生まれる正義や自由の気風を、多くの生徒たちが自分のものにしてくれたら、と願った。
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 「つかまえて!こころ」のパネル展示を22日−28日(前10・30〜後7)、浜松市天神町3の「天神蔵ギャラリー」で開きます。筆者も会場におりますので、ぜひどうぞ。

2002年5月18日掲載 <26>  

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