「死にたがる」は「殺したがる」

      「幻想」への無意識の反抗

 ギリシャの言葉だと思うが、記憶に刻まれた言葉がある。「老人は、窓辺に座り、海を眺めながら一日を過ごす。やがて抱かれる死の手を待ちながら。平安の内に」
 私はこの言葉に、与えられた命を生ききった者だけが知る喜びと感慨を、いつも感じる。
 近年、子供の自殺が増えている。多くは「いじめ」が絡んだ自殺だ。それと比例するように、少年による殺人事件も後を絶たない。ある新聞のアンケートで、「人を殺してみたいか」と問うたところ、五割に近い子供が「イエス」と答えた。問いそのものも不快だったが、「イエス」と言った子供たちの無邪気とも思える感覚が、不気味だった。その不気味な思いは、アメリカやドイツで起こった悲惨な事件の時に感じたものと、同じだった。幾人かの生徒が、同級生や先生を射殺した事件。同じ学校の生徒が、無差別に友だちを殺すそのことと、その理由の稀薄さ。殺すことだけが目的のような殺人の不可解さは、日本で起こった事件とも似ている。
 子供たちが安易に殺人や自殺に走るのは、「命の実感のなさ」が少年たちに蔓延していると指摘する声がある。そのような子供の感覚は、どこから来るのだろうか。人を殺したり、死にたくなる衝動の奥には、何がひそんでいるのだろうか。小さな子供は、あらゆる物や出来事に好奇心を向ける。そのエネルギーは際限なくわき上る。子供たちは手にした小石や落ち葉や虫たちを、何にもまして大切な宝のように感じたり、俊敏な犬や猫を目にすると、我を忘れて追いかけたりする。そこには「世界をじかに感じる」喜びがみなぎっている。そういうピュアな感覚を持ち続ける人は、「命の感覚の貴さ」を持ち続けるだろう。しかし私たちは、いつのまにか子供たちからそのような感覚の大切さを奪ってしまったのではないか。「ステイタス」という「幻想」のために。
 「良い大学へ」。そんな思いで親は子供に、未来へ向かうレールを敷く。しかし、その考えは「幻想」であると、今ようやく気付き始めている。良い大学に入った子供もそのレールから外れた子供も等しく、「社会で生きていく力」が確実に養われていないことに気付いたからだ。そしてその「幻想」を子供たちに押しつけたところが、「死ぬこと」や「殺すこと」に繋(つなが)っているのではないかと感じる。それがすべてではないだろうが。好奇心や発見の喜びが、「学ぶ」ことからすぽりと消えている現実。生きているという現実感のない日常。それらを私たちは「幻想」のために子供たちに強いてきたのだ。「死にたがる」や「殺したがる」子供たちは、その「幻想」への無意識の反抗だと私には思えてならない。
 そして与えられた生を「生き抜く力」がないところには、様々な苦難や喜びを生きてきた「ギリシャの老人」のような、平安の中でじっと海を見つめている晩年は迎えられないのだ。

2002年6月15日掲載 <29>  

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