モンゴルの蝶

      驚きに満ちた世界

 誰でも、少年のころには蝶(チョウ)やトンボを夢中になって、追いかけたことがあるだろう。私の友人の先生に、今でもそんな少年の「時」を、追い続けている人がいる。その彼が送ってくる「蝶の駅」という小さな冊子には、輝く言葉と興味を引く出来事がひしめいている。いかに彼が生き物たちにほれ込んでいるか、染みるように伝わってくるのだ。「蝶の駅」は生徒たちの生物観察の本でもある。そこに書かれた生徒たちの視線も、先生の気持ちを反映しているのか、どこか無邪気でおおらかな体験が刻まれている。私たちが見落としてしまうようなことが興味深く観察されている。読む度に、何気ない営みの中にも細心な目と好奇心さえ持てば、驚くほど面白い世界があることを知らされる。
 ネコの死骸の話があった。三月の朝、校門の脇のコンクリートの上で死んでいたネコを、彼の部活の生徒が拾ってきた話だった。普通だったら避けて通り過ぎるところを、二人の少女たちは、怖(お)じ気もせずに拾ってきて彼に差し出したのだった。ただ死んだままにして置けなかったのだ。死骸を受け取りながら彼は、「飼われていた時には名前があっただろうからな、こいつにも」と言って、その死んだネコに「カフカ」という名前を付けた。生徒がネコの死骸を拾ってきたということは、「解剖」を意味した(彼の高校は医学部志望の生徒が大勢いる)。それは「生きていることの意味」を彼がいつも語ったり、身をもって教えてきたからだった。教え子たちは、「生き物は死ぬ」ことの悲しさをちゃんと知っていて、その上での行動だった。「ネコの死」を粗末にしないで、「解剖」することでその死を大切にしたかったのだ。私はその話を読みながら、先生が生徒に伝えるものは「勉強という知識」だけではないと、あらためて確信した。蝶やトンボの形、そして飛び方や色の不可思議に魅了された彼の心の震えが、生徒に柔らかな感性や優しさを伝えるのだということを。
 彼は夏になるとしきりにモンゴルの草原を思い出すのだそうだ。私も彼の蝶探しの旅に誘われたことがある。モンゴルの黄昏は、いろいろな色の層の縞でできていると彼が言った。「蝶の駅」のスケッチにも、その層の色が文字で記してあった。薄い青さから濃いブルーの天蓋(がい)が、ポツンと草原にあるゲル(パオ)の上にあり、くっきりした星が無数に輝いているのだそうだ。私は、彼がその草原を思い、遠いまなざしを投げ掛けるのを想像しながら、そのまなざしの背後に、生徒たちの遠くを見る瞳を思った。その瞳は、モンゴルの夜空を彩る星の輝きに見えた。静かに目を凝らせば「世界は、驚きに満ちている」。彼の「通信」を心待ちにしながら、その思いを若い世代に伝えてゆくのには、自分がどれだけ好きなことに真摯(し)に打ち込めるかだと心に期した。
 彼から示唆されたものは、計り知れない。それをいつかまた書きたいと思っている。

2002年7月13日掲載 <31>  

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