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サークルゲーム(その2) | |||
『今日の友は明日の敵』 |
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![]() 「学校に行くのを止める」。自ら「不登校」を決意した少女がいた。彼女から「いじめ」の話を聞いた。その話を聞きながら「いじめ」の形は大人の在り方そのままだと認識をあらたにした。クラブでのことだった。集団で一人をボイコットする。その排除される対象は、時間とともに変わる。排除されていた子どもが「いじめ」の側になる。だんだん「いじめ」がどうして起こったのか分からない状態になる。「いじめ」のために誰かが犠牲になることが普通になる。「今日の友は明日の敵」が子どもたちの精神を痛め付ける。ここまでくると「不安」は生きる実感となってくる。誰かを排除することで自分の「不安」を無意識に解消する。まるで体中にたまった「不安のガス」を抜くように。こうして「いじめ」が続けられる。その先には「死」すらあるのだ。「不登校」によって、彼女は傷つくことも排除することからも逃れたのだった。私はその勇気を愛(め)でたい、と思った。 私たちは「平等」とか「共に生きる」ことを指針に生きてきた。子供にもそうあって欲しいと願いながら。「共に競う」や「希望を遂げる」も健全な意識の在り方と考えて。しかし本当に、個々を互いに認め合うだけの力を付けたのだろうか。 私たちは昔から縦社会を生きてきた。良きにつけ悪しきにつけ。経験者や年功者を立てて共同体を築いていた。そのような共同体によって心の平安が守られていたといっても過言ではない。そこにはやや自由が失われる欠点もあったが、今ではもう、その縦社会の美質すら、私たちは切り崩してしまったかのようだ。そして個人が個人を評価し助け合う、という共同体の意識を高めないまま、羅針盤のない舟になって、私たちは「いじめ」という痛ましい海を漂っているのではないか。その舟に乗り合わせる子どもたちは悲惨である。
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