サークルゲーム(その2) | |||
『今日の友は明日の敵』 |
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あるテレビ番組で、一人の若い先生の職場での悩みを聞いた。これはまるで子どもたちの「いじめ」とほとんど同じではないか、と思った。教材研究や生徒指導あるいは部活動に真剣に取り組み成果を上げると、同僚から嫌がらせを受ける話だった。「自分だけ目立って」とか「えらそうに」とかの陰湿な陰口が聞こえてくる。聞こえてくるのはいいが、ありもしない事々をねつ造して真実のように言いふらす。判断力のない人がそのエネルギーに取り込まれると、多数で一人を排除するようになる。私は教育の場で、そのようなことが起こっていることに恐れと強い失望を感じた。そして自分の経験と照らし合わせて、残念だが「やはり」と思えるのだった。子どもも大人たちも、個々の付き合いでは普通の関係を成り立たせることができるのに、集団になると、その普通さが変容する。一人の弱い者や目立つ人を「何故か」排除するようになる。そう。常に「弱者」と「目立つ人」の両方に、それは向かうのだ。このような職場がどこにもあるのかと思うと心が暗くなる。ましてや教えの場がそのようでは一体、教育は成り立つのだろうか。人間関係が成熟していない大人社会が、そのまま子供社会につながっていく恐れを感じる。 「学校に行くのを止める」。自ら「不登校」を決意した少女がいた。彼女から「いじめ」の話を聞いた。その話を聞きながら「いじめ」の形は大人の在り方そのままだと認識をあらたにした。クラブでのことだった。集団で一人をボイコットする。その排除される対象は、時間とともに変わる。排除されていた子どもが「いじめ」の側になる。だんだん「いじめ」がどうして起こったのか分からない状態になる。「いじめ」のために誰かが犠牲になることが普通になる。「今日の友は明日の敵」が子どもたちの精神を痛め付ける。ここまでくると「不安」は生きる実感となってくる。誰かを排除することで自分の「不安」を無意識に解消する。まるで体中にたまった「不安のガス」を抜くように。こうして「いじめ」が続けられる。その先には「死」すらあるのだ。「不登校」によって、彼女は傷つくことも排除することからも逃れたのだった。私はその勇気を愛(め)でたい、と思った。 私たちは「平等」とか「共に生きる」ことを指針に生きてきた。子供にもそうあって欲しいと願いながら。「共に競う」や「希望を遂げる」も健全な意識の在り方と考えて。しかし本当に、個々を互いに認め合うだけの力を付けたのだろうか。 私たちは昔から縦社会を生きてきた。良きにつけ悪しきにつけ。経験者や年功者を立てて共同体を築いていた。そのような共同体によって心の平安が守られていたといっても過言ではない。そこにはやや自由が失われる欠点もあったが、今ではもう、その縦社会の美質すら、私たちは切り崩してしまったかのようだ。そして個人が個人を評価し助け合う、という共同体の意識を高めないまま、羅針盤のない舟になって、私たちは「いじめ」という痛ましい海を漂っているのではないか。その舟に乗り合わせる子どもたちは悲惨である。
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