ピアニシモでね | |||
『怒り』をみつめて |
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「叱(しか)る」「怒る」「非難する」。こんな時、人は冷静ではいられない。冷静を装っていても顔は、そのどれをもあらわにしているだろう。しかし教師は、「教育」という観点から、いつも穏やかで冷静な立場を強いられる。例えこちらが未熟であっても、大きく生徒を受け入れる気概がなくてはならない。しんどいが、考え方を変えればやり甲斐のある仕事だ。それは「自分を作る」最適な時間を過ごす場所だと思えるからだ。 私も時々、感情的になって生徒を叱りつけたことがあった。強く怒るのは「愛情」があるからだと自己納得しながら。親からもちゃんと叱ってくれてありがたいと感謝されたりした。しかし怒っているその時の感情は、純粋に「愛情」に裏打ちされたものであったのか。 職場ではなく自宅での出来事だった。もうずいぶん前のことになるが。我が家には二人姉妹の子どもがいる。原因は何だったか忘れてしまったが、下の子どもを叱っている時だった。私の多分、強い口調をききつけた姉の方の子が、私の傍らに来てささやいた。「お母さん。ピアニシモでね」。私は怒りながら、その言葉にぼう然とした。「ピアニシモでね」。上の子は、音楽を学んでいた。私も手すさびであるがピアノを弾く。 「ピアニシモでね」。その時その言葉の意味を、上の娘は私に伝えたかったのだ、と思った。ピアニシモ。一番小さく弱い音。それは一番強い音のフォルテシモの、まるで対極にあるかのように見えるが、本当はピアニシモもフォルテシモも同じものなのだ。共に、音を最も効果的に強調する意味で。そしてピアノを習った経験のある方はご存じだと思うが、フォルテよりも、ピアニシモの方が、ずっとずっと演奏するのは難しい。多くの曲の、一番聴かせたい部分は、ピアニシモで演奏されるし、私は何度も、その音の美しさに感動したものだった。私は計(はか)らずも負うた子に道を教えられた気分になった。 それ以降、叱る時にはその言葉が浮かんだ。耳元に、娘の小さな声が聞こえた。怒りにまかせた叱り方では、何も生まれない。叱ったあと後味が悪いのは、相手も自分も互いに理解したり考えたりする時を、怒りにまかせて葬ってしまうからだろう。生徒に感情的に叱ることを「愛情があるから」と信念のように思っていたが、それが自己欺まんではないかと思い始めた。「先生という立場」。「生徒より偉いという思い込み」。「導いてやるという過信」。それらの鎧(よろい)を着て、私は生徒に接していたのでは、という思いを「ピアニシモでね」が教えてくれたのだった。 そのように接すると、暴言を吐く子や問題行動をする生徒の「やりきれなさ」が、明確に見えるようになってきた。そこから初めて、導く糸筋がつかめることをも知った。 「ピアニシモでね」は、生徒に「愛情」を持つことは「自分をみつめる」ことだと告げた、強くも静かな階調であったのだ。
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