不幸の理由(わけ)その1

      子どもに無関心な親

 「この人が友人であってよかった」と思う人にはなかなか出会わないものだ。自分の欠点や弱さを親身になって言ってくれ、その人が持つ美質を見守り、励ましてくれる人。そして「愚かといわれるほどに善良」な気持ちを、何があっても曲げないで生きてゆくような人。私にもそのような友人がいる。彼は警察官。高校時代の同級生だ。たまにしか会わないけれど、会えば昔のように語り合える友人だ。
 先日彼が突然、私のオフィスに遊びに来た。大変な事件を処理した後だった。責任ある立場にいる彼は毎夜遅くまで何十人という報道陣に対応しなければならなかった。親の起こした犯罪に巻き込まれ、メディアの容赦ない取材にさらされている子どもの行く末を、彼は案じていた。メディアの子どもへの配慮のなさに、いたく憤慨していた。記事が面白ければ何でもいい傾向が、メディアには強くある。しかし傷ついた弱い子どもに思いが至らない彼らの感覚の中には、メディアを受け入れる私たちの「他人の不幸見たさ」のニーズが見え隠れするのも事実だ。
 昔話をしながら「年をとると無性に昔の仲間に会いたくなる」と彼は言った。私は相づちを打ちながら、「今の子どもたちも、そんな思いを持つことがあるのだろうか」と老婆心ながら感じていた。
 話が高校生の非行の問題になった。彼はすでに三十年以上の警察キャリアがあった。「変わったよ。事件の内容も、子どもたちの心も」と感慨深そうに彼が言った。苦笑まじりに「非行で拘束した子どもたちがしょんぼりするのでもなく、施設の中でラジカセかけて陽気に踊りまくっている。注意しにそばに行くと『おじさん、ジュース!』なんてほざくのさ」。私は長い間子どもたちと接してきて、今の子どもたちの感性や行動の無秩序さには慣れていたが、彼の言葉にはいささか驚かされた。それより驚いたのはその後だった。「子どもよりもっと変わったのは親だな。連絡を入れると、引き取りに来る親はまだいい。無関心なのか放ったらかしだ。仕方ないから家庭に連れていくと、『どっかへ入れといてください』なんて言う。人ごとのように子どもを扱う親が増えているのだよ」。私も学校での生徒指導を思い出していた。彼が言うような親が急速に増えていることを。「連絡するとすぐにやって来て、子どもを見るなり思い切り殴る親を、昔はよく見た。殴るのには問題があるが、その親の目を見ると真剣さが分かる。そういう家の子どもはもう大丈夫、って思うんだ。子どもにも分かるんだよ、自分が悪かったことを」。彼は親と子の濃密な関係を懐かしむように言った。
 彼の話を受け止めながら、私の中で、ある親子のことが甦(よみがえ)ってくるのだった。(この稿続く)

2002年10月26日掲載 <40>  

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