麗しき人生

    学びながら歩いてきて  

 教師が「学校の枠」にとらわれて見失いがちなものを、思い出させてくれる人と再会した。
 Tさんは英語仲間の先輩だ。来年一月に上映される記録映画「平塚らいてうの生涯」のために奔走している。彼女の近くにいると、「人の美しさ」をつよく感じる。Tさんは七十代。今でも毎年のように夏になると、イギリスのケンブリッジ大の講義を聴講に行く。十八世紀の文学や韻律をたのしんだり、このごろはジョージ・エリオットの分厚い原書を読み始めている。「生きている間に読みきれるかしら」。彼女は冗談めかして話す。どの会話も素敵で辛辣(しんらつ)で面白い。お年を召して輝いて見えるのは何か。それは「学ぶこと」を生きるための友としているからだろうか。
 Tさんは私同様、「教える日常」を生業にしていた。教師には、「教えること」から自然に生まれる垢(あか)のようなものがこびりつく。「教えること」で、自分が偉い人間だと錯覚したり、傲慢な態度で人に接したり、自分の考えがすべて正しいと思い込むなどだ。「人の美しさ」からは、ほど遠い。
 Tさんと会話をしていると、教師の持つそんな垢のようなものが洗われる感じがあった。虚栄心がなく軽やかで、そして無私なものをTさんから受ける。その軽やかさはどこからくるのだろう。彼女とて人生の中では、いろいろな苦難や出来事があったはずだが、それが影にならず、浄化されているのはなぜか。人は自分の好きなことを手立てにして、自分の人生を伸びやかに、そして美しくすることができるが、彼女はその見本のように私には思える。Tさんと話していると英語が好き、ということがどこからでも伝わってくる。同時通訳や翻訳の問題。英文学や愛読書のシェイクスピアの話。聞いていてわくわくする。
 Tさんは「学ぶこと」が、生きるための主食になっている。よく消化され血液になって体の隅々まで行き渡っている。そんなところに美しさが宿るのだろう。
 教師が被る「教えることの病」を乗り越えるとしたら、私は「学ぶことの薬」を処方しなくては、とTさんを見ていて思う。学ぶ楽しさが、人を浄化させてくれるのだと。
 「平塚らいてうの生涯」は羽田澄子監督が撮った記録映画だ。Tさんとその仲間たちが浜松での上映を企画している。目立つのが嫌いなTさんが奔走しているだけで、その映画の良さが伝わる。「原始おんなは太陽だった」。女性解放の闘志と語られることの多い平塚らいてう。しかし、その生き方は激しくあっても、淡々と日常を生きたごく普通の女性でもあった、と羽田監督は丁寧に描いている。この監督の優れているところは、静かで見えにくい世界にこそ人の真実があるという視線だ。
 私はTさんとらいてう、そして羽田監督に共通して流れる通奏低音を感じる。「平凡な日常」をどのように生きるか。そしてそこに垣間見える人の価値が奏でるハーモニーを。私にはその調べが、「学ぶ楽しみ」の方角から聞こえてくるような気がする。このコラムを読んだTさんは、きっと「気恥ずかしい」と照れることだろうけれど。

2002年12月21日掲載 <46>  

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