走る少女

      時代が奪うもの 

 走る少女がいる。彼女は高校一年生。スポーツウーマンではない。だがその少女はよく駆ける。教科書の入った重いかばんを下げたまま、本屋へ、コンビニへ、疾走していく。彼女のそんな姿を見ると、いつも私は胸が熱くなる。青春、思春期そのものが走ってくる。そんな風に見えるからだ。かけがえのない時を、必死に味わっているとすら感じる。はくはく息をしながら、彼女はやって来る。「なぜそんなに走るの?」。問うたことがあった。「わからない。ただ走るのが好きだから」。彼女は答える。走らずにいられないそんな少女を見ていると、「命の輝き」というものをあらためて考えさせられる。
 友人から、ある現実を聞いた。長く教師をしていてある程度の予測はついていたが、その話に私は子どもたちの置かれている時代の酷さを感じた。バスの中での女子高生の会話。二人とも妊娠の経験があるらしく、それにまつわる話だった。友人が驚いたのは、その経験のことではなく、彼女らの感覚そのものだった。「最初の男には逃げられたよ。しようがないから友だちから金借りて堕ろした。無責任な奴さあ。こないだの男も逃げたから家まで行って親父に文句言ったら、半分だけ出してくれた。けちくさい」。「けっこう責任とるじゃん。息子より」。友人はその会話を私に語りながら、自分たちが生きてきた時代の代償を思い知らされた、としみじみとつぶやいた。「柔らかな心」を「豊かさ」の中で見失わせてしまったのは、自分たちの時代のせいなのだと。
 高校生の性意識がよく話題になる。アンケートなどから測ると、彼らは性をあまり深刻に考えない。性に対してオープンであるのは悪いことではないかもしれないが、しかし「恐れ」の感覚を持つことを私は大切に思いたい。死語になりつつある「純情」とか「ナイーブ」はそこから生まれるのではないか。あっけらかんと「人工中絶」や「お金のやりくり」を話題にしていた二人の高校生も、最初は「恐れの感覚」を持っていたはずだ。欲望やお金に晒(さら)されて、心も体もむしばまれていったとしても。万引きが常習になっている子を導く時、私はいつも「初めて人のものを盗った時のことを思い出してごらん。怖かったでしょう? ふるえるような感覚を持ったでしょう? それが本当のあなたなのよ」と話したものだ。「時代が青春を奪う」としても、人間本来が持っている人としての痛みや希望は、誰もが心の底に持っていると信じたい。
 走る少女は、年末に初めてのバイトをした。時給六百八十円。きゃしゃな体で十日間ほど働いた。私にはバイト先に向かう彼女の走る姿が見える。そして「青春の道」をひた走っているのは、彼女だけでなく、あの二人でもあるのだ、と思える。ただ、何者かに奪われてしまった青春のため、遅れているだけなのだと。

2003年3月1日掲載 <53>  

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