飛ぶ教室

      草の種のように

 『飛ぶ教室』。ケストナーの児童向け小説の題名である。ヒットラーの命令によって、ケストナーの著作のほとんどは焼かれた。それは彼が「人間の自由」を描いたからだ。
 浜松に『飛ぶ教室』という児童文学を中心に読み合うグループがある。月に一度集い、読んだ本について語る和気あいあいとした集まりだ。何回かお誘いを受け、とうとう先日お邪魔する機会を得た。一年間のグループで読む本の選定をしていたところだった。おのおのの推薦の図書が、あらかじめ配られた資料とともに皆の口から語られる。誰もがなぜその本が良いのか、読んでもらいたいのか、真剣に熱く訴えている。私はその様子を見ていて、この人たちは本当に「本が好き」なのだと感じた。本を読むその目的は、それぞれ違っているだろう。が、共通しているのは「楽しい」という生きている実感を、誰もが持っていることだった。その実感には、互いの思いや自由を認め合う彼女たちの姿があった。子どもの教育のため、感性や情操を育てるため、そんな肩ひじ張ったお題目が見えないことにも、私は安どしていた。本を読むのが楽しい。それが本読みの基本だと思えるからだ。
 このグループが「児童文学」に重きを置いているのには、それぞれの理由があるだろう。子どもが育つ時を重ねて物語を読む。昔の自分、今の自分を振り返って知るために。優れた作品が放つ言葉の輝きを味わうため。戻れない子どもの世界に、しばし戻るため等々。それらの思いに連なるものを、私は議論を聞きながら感じていた。この仲間が皆、無私で、温かく、利害など何もないところでつながっているとわかるからだ。彼女たちは「本を読む」ことを、「自分を読む」ことのようにしている。鏡に映った自分を見るように。明るく、謙虚で自由な感じがするのは、そのせいだろう。
 「草の根運動」。そんな言葉がある。その言葉の、「運動」だけを省いた本当の「草の根」を私は『飛ぶ教室』に見る。誇示せず、評価を求めず。自分とその周辺のかかわりを持った人たちを大切に、思い思われる密(ひそ)やかな生き方の力を。
 前にこのコラムで「谷間の百合」と例えた若い女性も、『飛ぶ教室』に加わっている。小さな子どもを二人育てながら、本を読むのを楽しみにしている。いつかこの子たちと世界を共有するために、と彼女は以前語っていた。その彼女が言った。「私は百合なんかではなく、土手に生えているペンペン草です」。和やかな彼女の笑いを浴びながら私は、草の根から育った種が空に舞い上がり、見知らぬ土地で根付くビジョンを見ていた。
 『飛ぶ教室』には、地に静かに根付く者たちが、いる。それだからこそ私は、その名前『飛ぶ教室』に、『人間の自由』への希望が託されていると思えるのだ。

2003年3月15日掲載 <54>  

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