乾 杯 | |||
命の灯を点しながら |
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ある秋の日、一通の結婚式の招待状が、私のもとに届いた。鮮烈な思いを残していった教え子からだった。迷うことなく、私は出席を告げた。 突然のように足が萎(な)えてしまった女生徒がいた。立っていられない。席にも座っていられない。力という力が自分の体から逃げ出してしまった、そんな状態が生徒を襲っていた。原因は誰にもわからなかった。家族は心配して病院に連れてゆき、ありとあらゆる検査をしたのだが、それでも原因がわからない。 「気持ちがわるいんです。どこかわからないけど、体調がわるいのです」。その時も、早退をしたいと訴える彼女の家庭に、私は電話をし迎えを頼んだ。母親を待っている間、つらそうな彼女に私は付き添っていた。あたたかな午後だった。私たちは昇降口のコンクリ−トの上に並んで座っていた。「寒い」と彼女がつぶやいた。寒い季節でも、寒い日でもなかった。「私の膝(ひざ)にもたれてもいいのよ」。戸惑うことなく、彼女は私の膝の上にふわりと落ちた。あたたかな、やわらかないきものの体温が私に伝わってきた。私は膝の上で命の灯が揺らめくのを感じていた。消えようとするのではなく、懸命に点(とも)し続けようとする律義な心を映すように。 近ごろ、ドメスティックバイオレンスなどと言う言葉で語られる夫婦間暴力。その渦中に、生徒はいたのだった。足が萎えた原因は、そこにあった。その生徒の母親は子どものために夫の暴力に耐えていた。子どもたちは離婚を勧めた。しかし父親のいない子はふびんと、母親はじっと我慢をしていた。互いの思いやりが不幸にも彼女の足を萎えさせてしまったのだ。 私は、子どもたちの非行や体の変調、そしていじめや引きこもりなどの行為は、大人たちへの何らかのシグナルと考えている。それに対して良い感度の受信機でなくてはと、いつも肝に銘じている。子どもたちのシグナルは大人の方へ向かって点滅していることは確かなのだから。さまざまな形で送ってくる子どもたちのシグナルを私は少しも恐れない。シグナルを巧妙に隠す子どもや、見ようとしない大人たちは恐れるけれど。 「立つことができない」。それは「立っていたい」心のシグナル。それに気付いて、彼女は足の力を取り返す。その陰には友だちの励ましや、母親、兄弟の愛情の「心の支え」もあった。 結婚披露宴。屈託なく、彼女が笑っている。足取りも着実で、りんとした姿がそこにあった。私はうなずいていた。かすかではあるが自分の中に点した命の灯を、彼女は懸命に守り続けてきたのだと。「生きるに難しい時もある。しかし生きることをあきらめさえしなければ、希望も未来もそこに宿る」。私はそんな思いを、膝に残る「あたたかな、やわらかないきもの」の感触に重ねていた。披露宴は、そう信じて余りある喜びの場であった。 乾杯。生きることを懸命に点そうとした心に。
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