春一番

生きて、命 

 間違いメールが届いた。「なんとなく」というタイトルのメール。「今、電車に乗ってるんだケド、近くの若い女の子がおばあちゃんに席ゆずってさ。天気もスゴク良いし、イイ事してる人は居るしで、な〜んかこっちまでちょっと幸せな気分になったヨ。今日は春一番が吹いてます。その暖かな風のおすそわけ」。そんな内容のメールだった。
 西の国。イラクでは砂漠の中で、必死に恐怖と戦っている子どもたちがいる。無心に見開かれた瞳に映るものは、わずかな光や希望ではなく、果てしない「死の恐怖」だけだ。アメリカとイラク。富める国と貧しい国。その両方に、それぞれの正義と戦う意味があるのだろう。がその意味には、可能性を秘めた子どもたちの未来や、老人たちの晩年という穏やかであるべき時が含まれていない。
 私は文章教室で、この戦争が始まる前に子どもたちによく質問した。「アメリカは戦争を始めると思う?」。子どもたちは口々に、「ブッシュは戦争をするよ。したくて仕方ないんだ」と同じような反応を返してきた。私は子どもたちの答えに、胸が震えた。いつもは元気でのんきでわがままな子たちが、真剣に戦争を嫌っている。「子どもや年寄りがかわいそうだ。死ぬのはこわい」。そう訴える子どもたちの言葉には、戦争がなぜ起こるかの真実よりも重いものがある。それを子どもたちは体で感じているのだ。自然に命が朽ちることは美しいことでもあるが、人工的に与えられた人の死は、何に増しても醜悪だ。
 そのこともあって、私は授業のテーマに「樹」を選んだ。屋久島の縄文杉の写真を見せながら、「樹」から感じる世界を文章にさせる。「命の重み」を考えて欲しいと願ったからだ。縄文杉の生命力。七千二百年。ひとつの命がこれだけ生きられることに、私はめまいすら感じる。その崇高さに。人の命ははかない。その思いが、木に神々しさを感じさせるのではないか。あがめたくなるのではないか。大きな木が神木として残っている地は、あちこちにある。
 私は生徒たちに「命の重み」と別に、どうしても知ってもらいたいことがあった。それは縄文杉が長く命をつないでいる意味だった。生きるための環境と自然が育んだ「親和力」のことだ。「親和力」。それは互いになじみ、生き抜く力のこと。誰に教えられた訳でもなく、自然は自分の与えられた生を全うする。早く枯れた樹は、生き残った木の養分になり土地を豊かにする。互いに自分たちの生きる場所を守るようにあるのだ。人は樹木の在り方より劣っている。戦争が起こるたび恥ずかしいと思ってしまうのは、そういう理由からだろう。
 私に間違えてメールした方に返信を送った。「まちがいメールみたいです。でも私は今、春一番の風を受けたように心が晴れやかです。ありがとう」
 遠くで「衝撃と恐怖」という、人が人をおとしめる声を聞きながら、私はささやかな人のぬくもりに、微かな希望を感じている。

2003年4月4日掲載 <57>  

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