木の声が聞こえる

      心の準備室

 木こりは風のささやきで、森の木々の病変を知ると言う。以前何かの本でそれを読んだ時、私は胸を打たれた。木こりが、木を直接見なくても、風の音で病を知るという力への驚きだった。
 もし子どもたちが、言葉をうまく語れない木であるとしたら、風である子どもたちの表情を、私たちはきちんととらえられるだけの力を持っているだろうか。
 先日、私が開いている画廊で、ある大学の学生たちの展覧会があった。その中の一人、十九歳の明るく元気な女子学生からメッセージが届いた。「大人への準備室」というタイトル。「高校時代の私はいつも美術準備室にいました。そこが唯一学校での私の居場所でした。窓の所に座って、空を見たり雲を見たり、みんなが授業をしている風景を眺めていました。私にとって、準備室とは一体何を準備するための部屋だったのでしょうか。大人になるための? それとも、自分らしく生きて行くための準備の部屋だったのでしょうか」。その辺りを読みながら、私は高校教師だったころの思いを重ねていた。
 教師時代の終わりごろかかわった生徒の多くが、教室ではなく保健室で時を過ごしていた。教室で学ぶことができない。そこにいることが我慢できない。そんな生徒の多くは保健室や他の準備室に、自分の居場所を求めていた。そのころから引きこもりの問題が、クローズアップされ始めていた。
 不登校や引きこもり、そして保健室登校。その行動が人間失格のようなニュアンスでうんぬんされる傾向がある。が、私はそう考えない。彼らがとる姿勢には、社会への刺すような反抗が隠されていると思うからだ。子どもにとって社会は息苦しい形で在るのではないか。私は彼らがとった行動の妥当性を信じる。「誰も守ってくれないから、自らを守る」。それが不登校や引きこもりの姿ではないか。大人の価値観からの避難。それは親や先生そして社会からの避難でもある。身を挺しての行動とすら感じるのだ。
 中学生千六百人のアンケート、というのを作家の村上龍がやった。その本によると、大方の子どもたちは「世の中は不平等」で「大人は楽しそうでなく」「親のようには生きたくない」という感覚を持っている。にもかかわらず、子どもたちは自分の将来に不安を持ちながらも「わくわくする」と答えている。私はそこに希望を見るのだ。
 しかし私たちが築いた社会は、その「わくわくする」子どもの未来を受けとめることができるだろうか。ただ物欲をあおる悪しき消費生活。乗り遅れることへの不安や恐怖を植え付ける受験体制など。大人がいつの間にかよしとしてきたそれらの価値観を、根底から考え直さなければ、子どもたちは窒息するのではないか。
 子どもが大人になるための「心の準備室」。それを私たちが取り戻さない限り、不登校や引きこもりはますます増え続けるだろう。そして子どもたちは「わくわくする心」を磨り減らしてゆくだろう。
 木こりが風の音で木の状態を知るのは、彼が木が好きだからだ。木こりのようで、私もありたい。
 私は、木の声が聞こえるだろうか。

2003年4月27日掲載 <60>  

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