画廊キューブブルー
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高橋典明作品展
  −眼差しの彼方へ−
    我が友Andrea Gennahに、この展覧会を捧ぐ

2011年11月19日(土)〜12月4日(日)

高橋典明展によせて―情熱とエスプリ

ほぼ高橋典明と同世代であるから、私はこの20世紀末から21世紀の初頭を生きて来た戦後派の一人といえる。戦後のコンテンポラリー美術では、ちょうど戦後のフランスのアンフォルメル運動やアメリカの抽象表現主義が怒涛のごとく日本に押し寄せてきた時期であり、それはあたかも全国を席巻するような様相を呈していたと思う。そんな中で、高橋は、一人で壮年期の昭和50年代からイタリア、フィレンツェに長期に留学し、生活する。だから、ひと際、心に期すものがあったのではないかと思う。アーティストである高橋と批評家の私とは、いささか抽象絵画(アブストラクト)について異なる受け止め方をしたかもしれないが、しかし2人は現在、少し落ち着いてその激しかった運動を反芻することができる。そこでの受けとめ方が、彼の作品によって理解できると思うのである。彼は、当時のイタリア留学で、西洋画における厳しい造形精神を身に付けたようである。抒情に流れずに、新しい形と色を探求し、丁寧に筆を運んでおり、狙っているところがぶれていないのが強みであろう。そうしたものが一体となって、作品を造っており、アーティストとして、描く喜びが画面に出てきたように思える。それは、画家として、生活者として、あるイメージがフォルムとなって湧いてくると、すぐに彼は共鳴し、フォルムに胸が鼓動し始め、そのまわりで熱気が巡り始める。そんなこころの様相を自ら選びとった色彩と形でからめ取り、画面が新しい表現を見せてくれる。赤、橙色など補色の大胆な組み合わせの妙は、まさに独自のものであろう。ダイナミックな筆触を、落ち着いたマティエールに代えていく技術などには、大きな深化と情熱が感じられる。

金原宏行(美術評論家・常葉大学教授)

高橋典明作品展
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眼差しの彼方へと向かう者は、何か。開かれつつ閉じられる時の前で、佇んでいると、「それで良いのだ」という過去たちの気配と静かな声が重なる。水のように広がってゆく安堵感と共に。暗黙の了解がなくては生きることは余りにも苛酷であると、誰かが呟く。その線を跨ぐべきか、切り裂くべきか。

跳ぶことと失墜は同意語である。その予感の総体の中で、タブローという不可解な存在が育まれ、見えないものだけが奇跡のように見えるものへと移行する。私は強いられて線を引く。いつだって夜明けは更新されず、闇だけが無限の快楽と生存を保障するのだ。美の根にあるものは、恐怖である。アルタミラそしてラスコーの洞窟絵は、痙攣する暗闇がもたらした偶然であり必然である。プロメティウスが闇の中で火を掲げる、それが絵画の誕生となる。太陽の直接性と暗さは双生児だ、としても、間接性の中で私が歩を進めることは許されてあるのだ。

未来が、未来ではなく、末梢的なもので支配されている、としたら踵を返して去った者たちへと立ち戻ろう。煉獄の秋へと誘うこと、その快活さこそが表現なのだ。遍く哄笑と飢餓は精神の糧である。

パルマ産の生ハムを味わうと、過ぎ去った時が蘇ってくる。もう夏だと恋人たちは華やぐ。描くことの傷痕は、私を慰撫して、一回性の宇宙を膨張させる。百合の眼が開くと、存在者たちの影が笑う。私は、私の中の表現者である。

秋だというのに、斯くも命が強いるものは何か? 誰かが声をかける。謎めいた言葉の結晶とは。弛緩と緊張がもたらす真空地帯に描くことの本質がある。散在する表現があり、光の奥に衝動的なものの到来が見える。フィレンツェ 浜松 本郷と寄る辺なき場所、何だか金木犀の柔らかな匂いがする。だからと言って形と色彩、そして線が、自在に動き出すというのは欺瞞である。「断念」する表現がある。表現することの不安や躊躇、強固に押し返そうとする感覚の網目によって、描くことの根源性が仄見えてくる。言葉に裏打ちされない表現を、今も、欲望しているのだ。
私たちが失ったものは、距離である。
遠く去っていくものは、美ではないと言おう。情緒に包囲された人々は、これが表現であると声高に語る。祈念と生存の中で、線を引く。目より先に誕生した感覚は、手であると言い切ってみる。直接性の痛みだけが、熱を帯びて、垂直に降下してゆく。永遠の幻想を置き去りにして。

文学や思考は不埒なものだ。表現が不快に感じるのは、色彩の鮮度ではなく、そこに纏わりつく文学性であり、自己の中に閉じこもろうとする何ものかが、そこにあるからだ。それは「他者」ではなく、「私」に属する感覚である。

不意打ちされながら、タブローはすでに死んでいると仮定してみる。人間も又、それに準じていると。では書物が言葉の可能性を担って、紙の持つ物質性を喪失させることは、輝かしい科学なのだろうか。生存は「手作業」として保障される。なぜなら、手の触覚なくして在ることの快楽と痛みは達成できないからだ。岩肌を撫ぜる手がある、戦慄する火が舐めるようにそれに重なると、傷痕としてのタブローの誕生と、希望が広がる。


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