眼差しの彼方へと向かう者は、何か。開かれつつ閉じられる時の前で、佇んでいると、「それで良いのだ」という過去たちの気配と静かな声が重なる。水のように広がってゆく安堵感と共に。暗黙の了解がなくては生きることは余りにも苛酷であると、誰かが呟く。その線を跨ぐべきか、切り裂くべきか。
跳ぶことと失墜は同意語である。その予感の総体の中で、タブローという不可解な存在が育まれ、見えないものだけが奇跡のように見えるものへと移行する。私は強いられて線を引く。いつだって夜明けは更新されず、闇だけが無限の快楽と生存を保障するのだ。美の根にあるものは、恐怖である。アルタミラそしてラスコーの洞窟絵は、痙攣する暗闇がもたらした偶然であり必然である。プロメティウスが闇の中で火を掲げる、それが絵画の誕生となる。太陽の直接性と暗さは双生児だ、としても、間接性の中で私が歩を進めることは許されてあるのだ。
未来が、未来ではなく、末梢的なもので支配されている、としたら踵を返して去った者たちへと立ち戻ろう。煉獄の秋へと誘うこと、その快活さこそが表現なのだ。遍く哄笑と飢餓は精神の糧である。
パルマ産の生ハムを味わうと、過ぎ去った時が蘇ってくる。もう夏だと恋人たちは華やぐ。描くことの傷痕は、私を慰撫して、一回性の宇宙を膨張させる。百合の眼が開くと、存在者たちの影が笑う。私は、私の中の表現者である。
秋だというのに、斯くも命が強いるものは何か? 誰かが声をかける。謎めいた言葉の結晶とは。弛緩と緊張がもたらす真空地帯に描くことの本質がある。散在する表現があり、光の奥に衝動的なものの到来が見える。フィレンツェ 浜松 本郷と寄る辺なき場所、何だか金木犀の柔らかな匂いがする。だからと言って形と色彩、そして線が、自在に動き出すというのは欺瞞である。「断念」する表現がある。表現することの不安や躊躇、強固に押し返そうとする感覚の網目によって、描くことの根源性が仄見えてくる。言葉に裏打ちされない表現を、今も、欲望しているのだ。
私たちが失ったものは、距離である。遠く去っていくものは、美ではないと言おう。情緒に包囲された人々は、これが表現であると声高に語る。祈念と生存の中で、線を引く。目より先に誕生した感覚は、手であると言い切ってみる。直接性の痛みだけが、熱を帯びて、垂直に降下してゆく。永遠の幻想を置き去りにして。
文学や思考は不埒なものだ。表現が不快に感じるのは、色彩の鮮度ではなく、そこに纏わりつく文学性であり、自己の中に閉じこもろうとする何ものかが、そこにあるからだ。それは「他者」ではなく、「私」に属する感覚である。
不意打ちされながら、タブローはすでに死んでいると仮定してみる。人間も又、それに準じていると。では書物が言葉の可能性を担って、紙の持つ物質性を喪失させることは、輝かしい科学なのだろうか。生存は「手作業」として保障される。なぜなら、手の触覚なくして在ることの快楽と痛みは達成できないからだ。岩肌を撫ぜる手がある、戦慄する火が舐めるようにそれに重なると、傷痕としてのタブローの誕生と、希望が広がる。
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