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地勢が育んだ日本の文化サンクト・ペテルブルグ工科大学にて 「日本文化」についてのレクチャ(2008年6月) (通訳 ロシア領事館 エカテリーナ・コルサコフ) | |
日本がどこに在るか、皆さんは知っておられると思います。東アジアの果て、それ以上先は何も無いところに弓なりに成った小さな列島が日本です。「極東」という言葉の表すように地の極まりにあります。その地勢から独特の文化や歴史が生まれました。文化の多くは「交流」という形で形成されるものですが、日本は大きな溜池のように他国の文化を入れ続けたのです。日本はシルクロードの終着駅でもあります。しかし日本からローマに続く道はありませんでした。ただやってきたものだけを受け入れたのです。古い都、奈良にある正倉院には西の国々からやってきた文物が、今も多く保存されていることでも分かります。 文化の溜池のような日本には、独特の文化が生まれました。単一の思想が支配するのではなく、様々な考え方や感じ方が混ざり合った独特の文化です。 |
| 講演会場の日露協会のビルはプロスペクト大通り(日本の銀座)にある | | | |
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| 言葉を例にしますと、日本の古代には書き言葉はなく、話し言葉しかありませんでした。そこに中国から朝鮮半島を経て漢字がやってきたのです。漢字は表意文字です。言葉の根っこに意味が隠されています。文字を見ただけでも伝えたいことが分かるように成っています。しかし日本人は表意文字の音だけを、自国の言葉にしました。ですから最初に使われた漢字はどんな意味も持ちませんでした。それが「万葉仮名」と言われているものです。「万葉集」は日本の古い詩歌を編んだものです。書き言葉の無い時代の歌が、漢字の音を当てはめられています。もう一つ興味深いのは、漢字が持つ意味を日本の心で読み替えることをしていることです。皆様の言語とは大きく、アジアの言葉は異なっています。従って、理解は少し難しいかも知れません。
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ここに示す「道」という文字を、中国風に発音すると「ドウ」と成ります。スポーツの世界で有名になった日本の「柔道」の「道(どう)」です。日本人は「みち」と読む方法を考えました。「みち」は文字の無かった頃の話し言葉でした。「道(どう)」と「道(みち)」は同じ意味です。 日本は漢字文化を入れましたが、漢字を日本的に処理して独特の文化を作って来たのです。一つの穀類や果実からお酒を造るのでは無く、様々なものを入れて造ったお酒のようなものが、日本と言ってもいいでしょう。 仏教の教えの流れも、地の果て日本で止まりました。「禅(ぜん)」は世界に有名な仏教の一つの形です。他にも様々な仏教の形が残って、日本人の心を形付けてきました。仏教の宗派は沢山あります。仏教学者などの見解では、「仏陀の教えを日本的に変えて本来の仏教とは異なっている」と言われています。溜池の中で、思想が分解されて、日本的なものになったのだと思います。
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| このようなことは地勢的なことが作用していたと思われます。日本人は「拒否する国民」では無く、何でも「受容」する民族でもあります。 ある思想家は、日本人は他国の思想を簡単に受け入れ、それを自分のものにする前に又新たな思想を入れる国民だと言いました。 しかし、このような日本人のあり方に私は肯定的なイメージを持っています。「流れて行く文化」ではない「止まった文化」を生きてきた日本人の面白さだと思うからです。 |
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| その面白さを端的に表すものが「庭(にわ)」です。日本の古い城郭やお寺には、必ずと言って良いほど「庭(にわ)」があります。ヨーロッパの庭園との違いは、日本の庭は人工的に造られたものですが「自然」を強く意識しているということです。「枯山水(かれさんすい)」なる庭は、枯れた山や川を表現したものです。日本は自然に恵まれた国でもあります。しかし「庭」にはそれとは別の、自然をイメージしたものがあります。その自然とは「精神性」の表現を言います。日本人は庭に「心を見る」のです。このような感性を作ってきたのが、「止まった文化」ではないでしょうか。仏教の日本的な発展が庭にあるのです。仏教はブッタの教えです。教えは言葉と修行によって広がっていきました。日本の仏教も本来はそうでしたが、中世から「庭」に「精神」を見るようになりました。京都の竜安寺にある庭は、石と砂だけの庭です。そこには仏教の教えのビジュアルな表現があります。抽象画のような精神的な造形が、そこにはあるのです。 | | | |
このような日本の感覚も、時代の波を受けて大きく変化しました。世界はインターネットと航空機の発達により狭くなりました。グローバル化することには利点もありますが、私は世界にある「古い文化の形」は残すべきだと考えます。人は物の享受だけでは生きられません。均一化した文化は生きる活力を阻害します。私たちは自分たちがやってきた、その根に向かって、慈しみの眼差しを向けなくてはいけない季節を生きているのではないでしょうか。 |
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