中西美沙子
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その人の名は、イエス

浜松百選 2008年11月号
テーマ「初恋」掲載

 日本がまだ熱かった頃、私は「恋」をした。
 学生運動に参加していた私は、「見えない敵」とたたかっていた。それは、属していた組織の強い理想主義と、自分の中に目覚めた運動への疑問であった。理想を語るのは良い。それを実現するのも良い。だが理想に拘りすぎて、他のものたちを受け入れない「強さ」に、欺瞞(ぎまん)を感じ始めていた。
 その男は、突然、青ざめた炎のようにやって来た。迷いの中で、固まりかけていた自我が弾けた。
 イエス・キリストに、私は恋をしたのだ。学生集会の会場で、私は所在無く「新約聖書」を開いていた。ギデオン教会発行の聖書であった。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。ヨハネによる福音書の一節だ。姦通を犯した女を糾弾する人々に対して、イエスが言い放った言葉である。「罪を犯したことのない者」。わだかまりが氷解する一節であった。人は躓(つまず)き、矛盾を抱えながら生きる。人間としての弱さ、そのことを知っていてこその理想なのだと。
 「『初恋』は成就しない」らしい。それは相手に対する幻想の強さが、「初恋」を作っているからだろう。打算や欲望の混じらない稀有なトランス状態を、「初恋」と言ってもいい。「ほのかに」「甘い」「憧れ」。そんな通俗的な表現が許されるのも、「初恋」だけだ。そこには余りにも清浄な空気だけがあり、無垢な精神の輝きがあるからだろう。生きることは、過酷な「時」のページをめくること。その人間的な営みは、ある意味でたのしく、刺激に満ちている。そのような人の一生に、「初恋」という手付かずの時が設けられているのも、面白い。
 私の「初恋」の男イエスは、残酷な顔をしている。奇跡や試練の物語よりも、弱き人間を試みる話が魅力的である。「初恋」がまだ私の中で続いているのも、その辺にあるようだ。「ペテロの否認」。使徒の一人のペテロが、イエスへの「信」を告げる。だがイエスは、「鶏が鳴く前に、お前は私を三度知らないと言うだろう」とペテロに語りかける。ペテロは強く否定するが、予言のとおり彼は三度、イエスを否認することになる。「三度」という数の意味は、如何に人は弱いものであるかの喩えでもある。
 東大教授をしている友人がいる。中学の同級生。彼、大貫隆君は宗教学者だが、もしかして彼もイエスに恋をしたのではないか。彼が著した「イエスという経験」を読むと、なぜかそんな気がする。「12人の使徒の中で、誰が一番すき?」。突然、私は問うた。春の夜道を歩きながら。「君は?」「私は、ユダ」。彼は少し笑いながら、ゆっくりと言った。「僕は、ぺテロ」。
 私がイエスに「初恋」の感覚を持ち続けるのは、人間の弱さの否定ではなく、その弱さを在りのままに受け入れる、「稀有な精神」を彼に見るからだろう、多分。
 私はキリスト者ではない。信仰を持たない人間である。だが躓き、猜疑心に囚われる弱き人としての私の傍らには、なぜか何時も、あの青ざめた男が立っている。

 

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