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球体の底の方へ

「続・風紋のアンソロジー」
浜松文芸館 2010年出版 より

 空の上から街を見る目がある。その視線は、重たい体を離れ、自由に動く一個の球体であるらしい。
 ボルヘスが球体についてのエッセイを書いている。球体のイメージと深遠が、彼の短文『パスカルの球体』に描かれている。プラトンの『ティマイオス』の中にある、「球体の表面上の点はすべて等間隔である」という箇所を引用し、球体と神への言及が披歴されている。彼独特のペダンティックで華麗な文体が、私を酔わせる。
 宇宙の星たちは球体である。なぜ球体であるのか。それは宇宙という広大な存在が普遍である証明かも知れない。星を見るといつも、ふしぎな思いに捉われる。
 心が重い時に、私は飛ぶ夢を見ることがある。翼の感覚と、どの細部にも届くような視線が、そこにはある。「眼球」は風景を眺め、心の奥底に至る。目の外と内との絶妙なバランスが、「飛ぶ」という夢を見させているようだ。
 浜松の街を飛ぶ夢を見る。夢の中でその街は、「平板」な砂漠のように、私を包む。砂漠なら幽かな時の陰影があるのだが、この夢の中の砂漠はいたって「平板」である。目は何かを求めて彷徨うのだが、視線が憧れ希求する家並みや人々とは、行きあえないで何時も終わる。意識の底の方では、慣れ親しんだ町名や、懐かしい人々の感覚が私を包んでいるのに。
 「旅籠町」「伝馬町」「肴町」「鍛冶町」・・・などの町名が、遺物のような響きを持って耳の底に残る。家具屋のおじさんの、分厚く固まった手の仕草。魚屋の威勢の良い掛け声や、いかがわしい興行師の呼び込み。脂粉がくっきりと歩道に航跡を残すと、未熟な性を持て余している少年や少女の体に、大人という不可解な世界が影を落とす黄昏時。
 懐かしい感覚は、後ろ向きである。後ろ向きであるからこそ、「失ったものたち」への思いが湧くのだ。
 近頃、世間では人が生きることも、「前向き志向」で語られることが多い。このむき出しの前向きさにとって、過去や、「失ったものたち」は、ゴミに過ぎないのだろうか。だが、その前向きさが、希望と引き換えにしたものの意味が、今、大きく私たちに覆い被さっている。
 「不死」の概念に私たちが囚われて久しい時が流れた。だが、私たちは相も変わらず、「人は死なない」という感覚で生きている。それは生産性と合理性が人間を幸福にするという幻想を、信じてしまったところにある。幻想は、自分を育んだ土地の恩恵をも忘れさせ、荒涼とした「どこにでもある街」を、抵抗なく受け入れる精神を作る。
 先日、テレビ番組で「谷中」を取り上げていた。東京の下町「谷中」は、幸田露伴などの文学者が住んでいたことでも知られている。人の匂いのする家並みと気風が、そこにはあった。谷中は、坂の町でもある。緩やかな坂道に小さな商店が並び、脇道に入ると「家」が「家々」となって軒を重ねている。
 球体が神に近い完全な形なら、「谷中」はそれに準じた場所だと、強く意識された。平明で合理的なものを私たちが最上なものとする幻想は、そこには微塵もない。どこか他の天体の、一つの日だまりのようであった。
 若い頃、私は「切り通し」をモチーフにして掌編を書いたことがある。住まいの東伊場から鴨江観音に通ずる細い道が、「切り通し」と呼ばれていた。名前の如くその坂道は、大地を穿った不自然な形の道であった。「聴濤館」(グランドホテル)という老舗の旅館と鴨江遊郭の間を貫通する道は、迷宮への道のようであり、私たちはその道を中心に遊びを極めた。雄踏街道と観音を結ぶための荒っぽい道であったが、私の心のある一部を決定したのが「切り通し」であったのは間違いない。「なぜ?」と問われても、途方にくれるばかりだ。説明できないけれど、でもそこが私にとっての「時」と「場」の経験であることは揺るぎないのだ。
 岸田劉生の油彩画に「切り通し」を描いたものがある。浜松美術館にも一点、収蔵されている。東京の新開地かどこかの、丘陵の一部を穿った切り通しを、写実的に表現している。むき出しの赤土と、切り通しの上に残る雑草の緑が、印象的な絵である。切り拓かれる未来と土地の持つリアリティーを、劉生は切り通しに見ていたのだろうか。余談だが、劉生の眼球は、見ることの習性なのか、大きくどろりと怒ったような表情をしている。
 藤枝静雄の眼球の張りと強さを思い出すことが、時折、ある。私にとっては先生である藤枝静雄は、天性の方向音痴であった。私事であるが、私もひどい方向音痴である。
 先生を切り通しの辺りで見かけたことがあった。夏の暑い午後であった。白いポロシャツから出た手。その手に握られていたハンカチが、忙しく額の汗を拭っていた。急用の車の中であったので、声も掛けられなかったが、道に迷っていたことは確かであった。先生の目は真剣であり不安であり、好奇心に満ちていた。私はその光景を見て、ふしぎなことに不安や心配を全く感じなかった。そこに藤枝静雄の「実存の形」を感じたからだ。先生は、迷いながら何時も何かを探し、拾っていたような気がする。作品の『空気頭』の誕生もそこにあるのでは、と思えるのだ。肴町にあった二流の映画館、浜松城公園付近など、誰にとっても自明であった場所。だが藤枝静雄にとってそこは、踏み迷い彷徨い歩いた、かけがえのない珠玉の場所であったのだろう。
 「後ろ向きな視線」に戻ってみよう。
 街が滅びる。それは人が滅びることと同じだ。「滅びは明るさとともにやってくる」。太宰治か小林秀雄かの言葉がしきりに思われる。
 「かつて」という言葉ではなく、「今」を生きるために必要なものは「影」である。その影は坂道や露地、人の歩行の気配などが作るものたちだ。人の想像力の中に、迷宮へと進み、反文明へと回帰する意思が住みつくことから、影が生まれるのだ。
 ボルヘスの球体論を読んでいて、痛切に感じることがある。地球という完璧な球体に住んでいて、人はなぜそれに逆らうのか。私たちは球体の底の方で悩み笑い、欲望と清浄な感覚を愛しく感じる。なぜなら、パスカルのいうように、「・・・恐ろしい球体である。その中心はいたるところにあり、周辺はどこにもない」のが地球であり、生きることであるからだ。
 このような感覚の中で文学や絵画が生まれ、人間が人である証明になっていった。だが今、人は明るさの幻想の中で滅びつつある。この浜松という土地も、着実に死滅しつつある。それは、「無駄」という幸福な概念が、「悪」としてはびこっているからだ。
 浜松は文芸から遠く離れた天体である。その形は不気味で、平板で、明るい。
 私は再び飛ぶ夢を見る。切り通しから迷宮へ。失った時と場の方へ。小さくはあるが、一個の球体の目を凝らして、かつて在った存在の記憶の方に、ゆっくりと視線を向けるのだ。

 

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