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飛翔する「眼」 ―浜松と藤枝静男―
「風紋のアンソロジー3」
浜松文芸館 2011年出版 より
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浜松に居を構え、そしてこの地になじんだ作家に、藤枝静男がいる。「構える」「なじむ」というような言葉は、月並みな表現である。だがそれは、「眼科医・勝見」であり「作家・藤枝静男」に、もっとも合った言葉だと思えてならない。意志を持って「住む場所」を選んだのではなく、偶然という天の采配をたのしんだ印象を、藤枝静男に持つからだ。
藤枝市に小川國夫という作家がいた。彼の作品は、「あらぶる血」と「救済される精神」に彩られたものであるが、そのイメージは、簡潔な文体により極端に抑えられている。その効果か、彼の内面に深く刻印された「痛みの原像」を露にしている。
二人の作家に共通するものがある。それは彼らが居を構える「地場の力」からの恩恵だ。
藤枝静男の地場は、「とほつあはうみ」といわれる浜名湖とその周辺である。彼は自分の身体のようにその場所を愛し、時に嫌悪した。場所や身体という厄介なものに関心を持つことは、「書く人」の宿命かも知れない。
浜松という地域を、「何の特徴もなく面白みに欠ける」という人は多い。だがそこには、自らの出自を無意味なものにする思い込みがあるのではないだろうか。
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藤枝文学の独自性は、この温暖な遠州という地域の中に潜む「魔の発見」から成り立っている、といっても過言ではない。彼の書斎から見える風景は、どこにでもあるような平凡なものであったろう。夾竹桃で囲まれた垣根。庭に乱雑に置かれた常滑の壺。際立った普通さである。だが木に寄る小鳥たちや時を刻む壺を越えて、藤枝静男が見る世界は、すでに異郷でもある。その視線は、浜松の市街地、引佐細江の野や山にまで及ぶ。或るときは、地を這う虫のように。また或るときは、猛禽類の目の如く。
藤枝文学を読むときにいつも感じることがある。ふだん馴れ親しんだ風景が、まったく違った容貌をして立ち現れる感覚である。それは藤枝静男から「見ることを強いられる業」のようなものを感じるからだろうか。
「君はどんな卒論を書いたのかね?」或るとき藤枝先生は訊かれた。奇しくも、今私が選考委員をしている「浜松市民文芸」の授賞式の時だった。私は小説部門に応募し、藤枝先生が選者だった。「ヴァージニア・ウルフです」。先生は間髪を入れず、「ブルームズベリーのかね?」と尋ねられた。私は、先生の知識の広がりに驚いた。その頃私は、ウルフの『ダロウェイ夫人』や『燈台へ』を読みながら、「意識の流れ」を使った作家たちに関心を向けていた。ジョイスやプルーストという作家たちに藤枝先生は関心がないと思い込んでいた私は、不意をつかれたように揺れた。
藤枝文学にも、「今」と「過去」という時間が交差する文脈がある。それは意識的な方法ではないが。
ウルフはロンドンを舞台に『夫人』を書き留めた。ジョイスはアイルランドのダブリンの市街を徘徊する二人の男をモティーフにして『ユリシーズ』を描いた。それは都市が書かせた文学であろう。人の動きが、実名の建造物や道路によって支配されているのだ。人間の自意識と錯綜する市街地、それを彩る時間。
藤枝文学が描く浜松に、私は、ジョイスなどの作家を重ねてしまう。東海道の中心に位置する浜松は、ロンドンやダブリンが持つ歴史の淀みというものがない。そのためか、幾分乾いた感じのする都市でもある。街道の終わりではない、どこかに繋がっている風の通る街でもある。藤枝先生は、浜松の特徴を、人一倍知っていたのではないか。遠州灘と赤石山脈に挟まれ、西には浜名湖、東に大天竜の流れ。その自然の地誌から生まれるイメージに、「家族の原像」や「身体からくる違和感」などを織り込んだ作品を残した。どこかバロックな感覚を秘めた先生の作品からは、暖かく人の営みを慰撫する力がある。それは、自然や人を見つめる、彼の視線そのものであろう。
藤枝先生の作品の中で私が一番好きな作品は、『欣求浄土』だ。『空気頭』『田神有楽』も、人間の不可解さとユーモアが魅力であるが、『欣求浄土』の、力が抜けてところに私は惹かれる。「厭離穢土」ではない穢土をこよなく好んだ後の、透明な空気がそこにはある。
藤枝市に終世住んで物語を紡いだ小川國夫。彼を取り巻く自然と人は、融和するものではなく、敵対するようにある。それは、余りに小川の文学が求心的であったからだ。彼が描く大井川や大崩海岸に降る光は、硬質な精神の在りかを象徴している。小川は藤枝という街道町に住み、止まることのできない流れ去る者の、精神の痛みを刻み続けた。彼の文学が「青春文学」の面影を留めているのは、そこにあるのかも知れない。
藤枝先生の作品は、拡散し偏在する眼のように読める。小川國夫と藤枝先生を大きく分けるのは、通俗的にいえば宗教観の違いであろう。小川の文学がそぎ落とす鉈(なた)の造形であるとしたら、藤枝先生の作品は、身体に纏わりついたものたちを丁寧に拾い集めた、柔らかな精神のマッスのようだ。
レヴィ・ストロースの『野生の思考』が捉えた未開の人たちの不思議な行為に、ブリコラージュがある。不要で何の役にも立たない物たちを集め、それをオブジェのような形にする行為。「何時か何かになる」「集めておく」「意味のない形を作る」。ブリコラージュが孕む、不安定なイメージの流れはどこか藤枝文学に似ている。連続性ではなく、「栽培された思考」でもない、見えるものや意識が脱臼されたイメージである。
日本人の感覚の古層にある汎神論的な力による自然や人への接近が、藤枝文学の根にあるように感じる。
そのように視線を置き換えると、浜松の街が陰影をもった生きもののように、私には思える。藤枝先生に誘われるように、彼の本を再び、めくる。
子どもの頃、よく私は、かくれんぼをした。木の蔭や土管の中、饐えた臭いのする廃屋などに隠れると、自分の息遣いの生暖かさに驚かされた。その場所は、どこかに繋がる不思議な場所であった。藤枝作品にいつも感じるものは、それとどこか似ている。
藤枝先生は、かくれんぼをする子どもの目で、街を巡り、拘りの事々を、あちらこちらに記していったように思える。
浜名湖の畔で「近代文学」の仲間が、夏になると集まった。藤枝先生の呼びかけであった。私もそのための手伝いをした。埴谷雄高、本多秋五、杉浦民平、平野謙の錚々たるメンバーが集った。そこに集まったすべての作家は、今では鬼籍にいる。それほど時が経ったとは思えないほどの、鮮やかな夏の事件であった。
藤枝先生の中には、文学とそれを取り巻くものたちへの慈しみがあった。その一つが、他者の描く文学に、積極的に接近することだった。市民文芸の選者をしておられたのも、そんな動機があったからだろう。
文学を尊重する心。それは、不可解で不透明なものへの関心である。解き明かせない絶望に歩を進めることの喩だ。藤枝先生は、そのような魔物に捉われた人々に、情を寄せたのだと思える。
私の部屋には藤枝先生から頂いた小さな宋胡禄(スンコロク)がある。タイの古い焼き物だ。それに触れると、彼の無私な風が流れ出す。「無私」などと形容すると、先生は笑うかもしれない。
藤枝先生は、骨董品に目がなかった。その影響か、「美」などたいして分らない私も、古物を買うようになった。手に入れることは、人の欲望の醍醐味でもある。たとえその物が偽物であったとしても。
京都の骨董店で、古伊万里の油壷を買ったことがある。江戸末期の伊万里だ。私は浜松に戻ると早速、先生に見せた。「いいじゃないかね」と、彼は油壷を掌で包み込みようにして言った。後で分かったことだが、その油壷は明治の頃、瀬戸で作られたものであった。
どこにでも「美」はある。だが、それが放つ「人間臭さ」や「残酷さ」を捉えることは難しい。藤枝先生は、物や自然、そして人との間に生まれる「躊躇するもの」を、たのしんでいたようだ。私の油壷は書棚に置かれている。長い時を吸い込んで、あくまで寡黙である。時折眺め、そこに文学の在りかを感じたりしている。
藤枝市には、小川國夫と藤枝静男を展示する場ができた。小川は顕彰されることを拒むような、単独者であった。だが、彼の文学の跡を残したいと思う人々の形が、その場を作ったのだ。『アポロンの島』から漏れる硬質な光は、彼がモーターサイクルで旅した地中海だけにあるのではなく、藤枝という地にも、降り注ぐだろう。
浜松文芸館には、藤枝静男が寄贈した貴重なものがある。彼が書いた原稿の多くが、ここにある。戦後の日本文学を支えてきた文学雑誌「近代文学」、藤枝先生と触れあった作家たちの手紙などが。
忘れ去られるものは、忘れられよ。それが運命であるのなら。だが、無関心と物優先の精神がそれらを捨て去るなら、この浜松は、より不毛な、無名の地、と化すだろう。
藤枝静男は戦後文学の周辺にいて、それを支えた作家である。「近代文学」という巨大な文学的営為の随伴者だ。彼が残した作品もまた、時の風化に耐える力を有している。このような作家が浜松にいた奇跡を、私たちは忘れてはならない。
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