ことばを発したい。でも方法がわからない。あるいは発することによって傷つくのが怖い。こんな子どもたちや大人が増えていますね。
コミュニケーションを取る、ということ。それは人ときちんと対座し、関わることが土台です。でも、現代は、そこから少し韜晦(とうかい)させた形で人と繋がりたい、と思う傾向があるのでは。チャットやメールやブログなどの膨大な量を思うとき、それを実感するのです。本当は誰もがリアルな存在でありたいと願っているはずなのに、肉体を持った「生きたことば」としてではなく、バーチャルな世界で発信している、と。
では、人と人とが、ことばを通して直接的に関われないというのは、どういうことでしょうか。それは社会のあり方を映しているのではないかと思うのですね。
家庭が核家族化して、会話が希薄になっていること。IT(主にゲームやケータイ)の発達により、人との直接的な結びつきをしなくてもすむ社会環境になってしまっていることなどなど。
言葉は、人と人との関係の中で意味を持ちます。ことばによって傷ついたり、相手の心を計ったりすることによって、人は成長するのではないでしょうか。しかし今の子どもたちは、ことばの齟齬(そご)によって成長することよりも、齟齬によって傷つくことを恐れます。本当は、そこから、あるいはそこを乗り越えることによって、人は進化するはずなのに。恐れを解決しないまま、ITの中に埋もれてゆく危険性をはらんでいるのが、今という時代です。
文章教室「スコーレ」は、「書くこと」「読むこと」を通して、考える力や想像力や、何よりもそれらを土台にした「生きる力」を育てる教室です。つまり、ことばを生きたものとして、子どもたちの中に芽生えさせ育む試みをしているのです。
スコーレは、「英才教育」をやっている、とよく言われます。確かに論文コンテストや作文コンクールなどで、次々日本一が生まれたり、良い大学に合格したりします。でも、私はそれを目的にやったことはないのです。目的は常に、「子どもたちが元気で生きていって欲しい」。そこだったのです。そして付け加えるならば、「特別な子」が日本一になるわけではない。誰にも可能性と、その発芽のチャンスはあるということです。
スコーレの生徒は、子どもから大人まで、年齢や個性そして目的が多様です。彼らの特徴や考え方の一つひとつを丁寧に見てゆくと、今、という時代が透けて見えてきます。私は「今の時代」を、「書くこと」を通して彼らに考えるよう指導しています。
記憶中心が学習と思っている子どもたちに、本当の学びとは何かを教えてゆきたい。生きることはこんなにたのしく、喜びに満ちたものであることも。 この時代は、大人も子どもも、成績の出来不出来に一喜一憂します。しかし喜んだり悲しんだりするのは、「考える力」や「生きる力」が育っていないことではないでしょうか。
子どもは元気です。子どもは無鉄砲です。子どもは傷つきやすく、そしてやさしい。子どもは少し残酷で、子どもは自由です。 こんな子どもの感性を、私たち大人は、褒めたり怒ったりしながら育てているでしょうか。昨今の少年犯罪やニートなどの問題も、「育てる」その仕方に問題があるのではないでしょうか。
スコーレは、こんな生き難い時代に、心が負けない子どもをと願って始めた教室です。時にご父兄にもきつい意見を言うのは、何よりも子どもが大切だからです。生徒には、「書くこと」だけでなく、躾やマナーも厳しく教えています。やがて子どもたちが生きる社会に、それは「必要なこと」だからです。勉強と心が結びつくとき、初めて人間としての未来が見えてくると考えるからです。
スコーレは、開かれた教室です。意見や生き方の行き交う場でもあります。ともに考えてゆける場を、これからも模索してゆきたいと願っています。 |