今は、人が水を育むとき山口貴弘(中3) 僕は、水の一部だ。 小学4年生のときに、「いのちのれきし」という本で、人間やその他の生き物のルールは水だということを知った。人の体の60パーセントが水で出来ていることも。 僕の家の近くに、佐鳴湖という小さな湖がある。湖の歴史は古く、湖畔には古代人が住んでいた遺跡がある。「蜆塚遺跡」に行くと厚い層の貝塚が見える。 その佐鳴湖が、水に関する大きな問題を町の人たちに投げかけている。全国汚濁ランキングワースト1位の不名誉な、貰いたくない栄冠だ。昔はこの湖の貝や魚を食べて人々は生きてきた。そのことを貝塚が僕に教えてくれる。祖父の時代にもまだ食べられる魚はいたそうだ。湖畔に家がどんどん立ち始めてから湖は汚れ出した。日本の豊かな生活と比例するように。 なぜ、生活が豊かになり経済や科学が発達する時代に、水は汚れるのか。人の命が守られてこそ豊かな生活といえるのに。 僕は、「水」に対する日本人の考えに問題があるのではと思った。日本はヨーロッパなどと違って水に恵まれている。地形や森林、海が水を育てている。水道からは生のまま飲める水がいつでも流れ出てくる。夏になるとたまに節水の呼び掛けが聞こえてくるが、水を飲めないで苦労をしたことがない。それが日本だ。そんな日本では、国や行政、また水のことを真剣に考える地域の人たちが、いくら「水が大切」といっても、その声は届きにくい。 ヨーロッパでは戦後、水の大切さを教育に取り入れたそうだ。ヨーロッパで流れる水は日本のような軟水ではない。硬い水が多い。だから飲める水を貴重に思うのだろう。飲み水を輸入する国があるとも聞いた。ヨーロッパでは手洗いの水とトイレで流す水は分けている。日本では飲み水もトイレの水も一緒な家がほとんどだ。これでは水の大切さが理解されることはない。 古い時代から人は水とともに生きてきた。その関係が五十五年という短い時間で、崩れかかっている。産業の発達、生活の変化が水の命を奪っているとしたら、現代を生きる人たちは文明人とは呼べないのではないか。 僕は、「日本の水を知る」ことが水を守ることになると思う。 学校でも水の大切を授業で教えてくれる。でも実感がなかなかわかない。もっと現実に「水と対話」できる時間が多く取れると良いのでは。 総合の時間、僕たちは佐鳴湖の岸辺に葦を植えた。葦が持っている浄化能力を活かすためだ。あちらこちらに葦が生えて、風にゆれている。しかしまだその効果は上がっていない。でも諦めずに植え続ければ湖は少しでもきれいになるだろう。こんな体験を教育に多く取入れて行けば、皆の水への考え方が変わるのではないか。「水を知る」ことが行動することと重なって、初めて水が生き返ると僕はもう。 桜の咲く頃になると思い出すことがある。総合の時間で湖に行ったとき、僕は友達とふざけていて浅瀬に落ちた。水の生臭い匂いと、どろどろとした水底の嫌なものを感じた。湖を見る度に僕は、その感覚を思い出した。その感覚は佐鳴湖の悲鳴のように思えた。 僕の体は、水の一部だ。しかし水を苦しめながら生きている人間の一部でもある。水は人や多くの生きものを育んだ。今は人が水を育むときだと思う。
静岡県環境局 主催 2007年 「水の週間」記念作文コンクール 靜岡県教育長賞
|