文明化(シビライズ)する政治へ田中愛莉(高2) ルサンチマンと土着性 ハイブリッド車一台と選挙の一票は、同価値だ、とある新聞は報じました。 選挙が近づくと、若者の「政治への無関心」がマスコミを通して伝わってきます。選挙の投票率が数値化されることもあって、社会問題の一つに挙げられています。一票が、ハイブリッド車一台分。これは、一人あたり三百万円超の税金の使い方が左右されることを言っています。 このようなメディアの喩(たと)えが、皮肉を含んだものか、今の日本の精神的な風土を表しているのか分かりません。読んだ瞬間、「物」と「選挙」が同列に例えられることに、私は違和感を強くしました。「判断すること」よりも、「今、そこにある楽しみ」を優先させる日本人の心のあり方を感じたからです。 福沢は一八三五年、中津の下級藩士の末っ子として生まれました。その有名な言葉に「門閥(もんばつ)制度は親の敵」があります。福沢の父は封建制度に不満を持っていました。彼は、諭吉を僧侶にして、封建制に左右されない生活を送らせようとしました。『福翁自伝』の中で福沢は、中津を「封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経っても一寸(ちょい)とも動かぬ有様」だと語っています。この出口が無いような「箱」の存在が、諭吉を生んだと言っても良いでしょう。 門閥制度を嫌ったのは、福沢ばかりではありません。多くの下級武士たちによって成された明治維新の土台には、「箱」の中で抑圧されてきた人々の、怨念の声があったと思われます。 丸山真男の『「文明論之概略」を読む』を読んでいて、ルサンチマンという言葉に出会いました。ルサンチマンは、日本語の怨念よりも能動的な情念の力を感じる言葉です。この言葉を知って、明治は下級武士たちのルサンチマンで始まったのでは、と考えるようになりました。明治維新を成した多くの人々は、下級武士の出自を持っています。自らの弱みから脱却しようという個人的な理由が束になったところに、明治維新があったように思えてならないのです。 しかし、ルサンチマンによって成し遂げられた明治政府は、「封建制の箱」の形を変えて、新たな「箱」を作ってしまったと感じました。明治政府の多くの要人は、「出自」と「仲間」を中心にした政治をする傾向を持っていました。「土着性」からの発想が、そこにはあります。その悪しき伝統は、今の政治にもあるのではないでしょうか。政治家が地元に利益誘導をもたらし、その見返りとして有権者に一票を入れてもらうシステム。政治の基本である全ての国民や国家への思いよりも、「出自」や「仲間」の連帯を優先させるのです。 単眼と複眼 「全国の智力に由て衆論を成し、その衆論の帰する所にて政府を改め、遂に封建の制度を廃したる」と、福沢は『文明論之概略』で、封建制からの脱却を示唆しています。 福沢は、封建制に根付く「土着性」を強く嫌悪します。そこで生まれる「仲間意識」よりも、「個人としての独立」の必要性を主張し、「衆論」という民主主義の根幹の重要さを主張しています。福沢が「土着性」の罠に囚われずに、客観的に政治や国、そして国民のあり方を見つめられたのはなぜでしょうか。それは自らのルサンチマンに流されるのではなく、それを他者の目で見る力があったからだと考えます。その目は、海外への渡航経験や書物からの影響だけではないでしょう。『福翁自伝』の文章には、自己に拘泥すること、福沢の言葉でいえば「惑溺」をしないで、「あるがままに物事を見る」世界観があります。自分の人生であっても、ごろりとしたあるがままの生き方が描かれています。その意識は、何かが足りないという焦燥感が作っていたように思われます。他の維新の偉人たちと大きく違っているのは、福沢が自分の中にある焦燥感を見据えたことでしょう。 近代は、「出自」という偶然によって作られる権力や地位を排除することから生まれるものだと、私は考えます。 福沢は『学問のすすめ』や『文明論之概略』で、近代人のあり方を、文明論として表現しました。自己の中にあるルサンチマンを、政治や権力の場で晴らそうとするのではなく、国や世界がより良くあるように啓発する道を、福沢は迷うことなく選んだのだと考えます。 それは福沢が生涯をもって示そうとした、「一身独立」の思想に見てとれます。彼が「一身独立して一国独立する事」と言ったように、本来は国民、市民があって政治があるはずなのです。福沢が政治ではなく教育を選んだのも、教育によって「土着性」や「自己のルサンチマン」に囚われない人材を作りたいと、考えたからではないでしょうか。それは明治の権力者が、「土着性」や「ルサンチマン」は、彼らが打倒したはずの古い封建制の名残りであることを理解していなかったからだと、福沢は考えていたように思えます。 そのような意識は、明治維新という「革命のあり方」が、大きく作用しているのではと考えます。明治維新という革命は、世界で起こった二つの革命と比べ、大きな違いがありました。 明治維新の約百年前、アメリカ独立戦争とフランス革命が起きました。革命の中心はいずれも知識人や平民でした。明治維新は、これらと違って武士階級が成した革命でした。権力内革命であることから、市民階級への目配りよりも、自分たちの地位の獲得が優先されたと考えます。福沢は明治の政治が、階級内のみの闘争の延長上に留まっていることに、憤慨したと思われます。 「十人は十人、百人は百人、みな立身出世を求めて役人にこそなりたがる」と福沢は述べています。その背景には、「立身出世」が「私利私欲」であり、そのことに疑問を感じない政治家や官僚が、明治政府を担っていたことがあります。権力の魅力は、自己のエゴを離れて、「普遍的な理想」を現実のものにすることだと私は思います。権力とは、「夢色」で染まった、見果てぬユートピアへの扉を開くためのもの。そのために、リアルな政治の駆け引きがあるのではないでしょうか。 政治への距離 福沢が政治から意識的に距離を取るようになった事件がありました。 景気悪化のために義塾存続が危ぶまれた時に、真っ先に政府に助けを求めたことがあります。井上馨や伊藤博文などの政治家への手紙に、政府が三菱商船学校に補助を与えることについて、「岩崎弥太郎は船士を作り、福沢諭吉は学士を作る。海の船士と陸の学士と固より軽重あるべからず」と言って、義塾へ援助を求めるなど、その関係は遠慮のないものでした。けれども官報公布の案が取り消され、それに続いて明治十四年の政変に巻き込まれたことで、政治への不信感が募ってしまったと思われます。 福沢が政府の「今」を伝える新聞、官報の作成を承諾したのは、その目的が国会開設の推進だと聞かされたからです。福沢が大隈重信や伊藤博文との仲間割れを気にするので、井上馨は次のように言いました。「われら三名はすでに、神明に誓うて事をはかっちょる。じゃけぇ、徹頭徹尾、苦情や諍いなぞは起こらんわね」。しかしその後、大隈と他の二人の間に亀裂が生じ、官報はおろか、明治十四年の政変で福沢が国会を乗っ取ろうとしている噂まで広まり、政府の塾員の大半が罷免されたのでした。福沢が政府に不信感を持ったのも頷けます。 『学問のすすめ』に、「怨望はあたかも衆悪の母の如く、人間の悪事これに由って生ずべからざるものなし」とあります。怨望が、暗殺や内乱の根源で、国にプラスになるものは一つもないというのです。明治十四年の政変で、福沢は政界に渦巻く多くの権力者の怨望を感じたのでしょう。あの事件は、政治家の私的エゴがもたらした悲劇です。政府内での争いは、「内なるもの」にすぎません。政治家と官僚は、「外なるもの」に奉仕するものだと福沢は考えたのでしょう。 福沢は、政府は蜂の巣を突きこわしたような有様だと表現し、「決して其蜂の仲間に這入て飛揚を共にせざる」と言いました。その蜂は、政府という「内なる巣」に留まっていました。福沢は、常に権力の場を飛び続ける蜂たちが、国や国民を見ていないことに不満を持っていたのでしょう。 福沢の説いた「一身独立」は、残念なことに今も定着していると思えません。これは私たち一人ひとりが、なお自己のエゴにこだわる「蜂」であるからだと、私には思えるのです。 大隈重信と諭吉 早慶戦。大学野球などでよくマスコミに使われる表現があります。慶應大学から見れば慶早戦になると聞きました。早慶は特別なライバル同士であるからでしょうか。 早稲田大学創始者の大隈重信は、福沢の三歳年下で、まさに同じ時代を駆け抜けた人物と言えるでしょう。 大隈は、佐賀の上級藩士の家に生まれました。下級武士として生まれた福沢とは違い、生まれながらにして為政者という位置にいました。大隈にとって、政治参加は当たり前。門閥制度にどれだけ疑問を持ったかは分かりません。彼の政治への意欲は、その生い立ちと強く結びついていたのだと思います。 福沢は啓蒙思想家だと言われます。それは国民の理性をもって、知的に問題解決へ導こうと考えていたからでしょうか。福沢は、学問と政治を別のものだと認めていました。「学問教育の社会と政治社会とは全く別のものなり。学問に縁なき政治家と学事に伍を成す。既に間違いなり」という言葉を残しています。けれども大隈は、「政治こそ我が生命」と唱え続けた人物です。大隈の生き方の基盤には、常に政治というものがありました。 「大隈財政」という言葉が残っています。国家財政が破綻しかけている日本で、大隈は多額の外国債を募集する案を考えました。これは、外国の言い分を受け入れざるを得ない状況になることもあってか、反対する者が多く、最終的には却下されました。この話にも、大隈の政治を過信する気持ちが表れていると思います。大隈もイギリスへの渡航経験があります。イギリスという大国が、どのような国であるか充分に理解していたはずです。諭吉はアメリカやヨーロッパ、アジアを回って、「大国のエゴ」をつぶさに見ています。大国の植民地政策への憤りが、著作から見えます。西洋の文明を高く評価してはいますが、「大国のエゴ」も正確に把握していました。それだからこそ、日本の文明化を急いだのです。「脱亜入欧」は、西洋を全て信奉するという考えではありません。西洋の良いところを合理的に活かし、「西洋に対する拘りを捨てた」ところに、諭吉の魅力があります。 しかしなぜ大隈は、日本という国家が確立していない明治初期に、外国債を発行しようと考えたのでしょうか。外務大臣にもなった大隈が、「大国のエゴ」を疑わなかったとは思えません。それには、大隈の出自が大きく関わっていると考えます。封建制の中でルサンチマンを溜め込んでいた福沢とは違います。権力を行使することが日常であった大隈の生まれ。そこに、政治が世界を変える最大の権力であるという幻想を、大隈は持ってしまったのだと考えます。 福沢は、「政治」という現実主義だけではなく、教育と啓蒙が拓く可能性を求めたのだと、断言できます。その可能性は、文明化への意欲でした。そこには、封建制の「箱」の中で呻く自分の姿と、時代への鋭い視線があります。 大隈には、自己を他者の目で見るという意識が希薄です。それは、出自から生まれた感覚でしょうか。権力を得ることで、自分の取り巻く世界を変えることができるという楽観性が、あるのです。諭吉は、政治家の一遍こっきりの政治よりも、「教育」が含んでいる未来性と多様性を求めて生きていました。それは、下級武士であった福沢のルサンチマンが私怨として留まるのではなく、文明化という政治や経済、教育などを内包する力に惹かれたからだと考えます。 『文明論之概略』の第三章を読んで 『文明論之概略』の第三章は、「文明と政治」が、重層的に語られています。福沢の論の魅力は、複眼的な論拠の示し方にあります。「人間交際」「惑溺」「智徳進歩」などの西洋の論と、日本の言葉を巧みに結びつけた概念を使い、「文明」への方法論が示されています。納得できる感覚は、学んだものへの執着や偏りがないところにあります。読んでいると、「政治」は「文明の進化」の中に内包される、一つの機関に過ぎないことが見えてきます。福沢の考える文明は、人間が幸福に生きるための核になっています。経済や政治、教育も、文明があって初めて成立するのだということが分かりました。子安宣邦は、「『文明論之概略』精読」で、諭吉にとって「政治は文明中の一事なのだ」と言っています。 その文明とは何か。丸山真男は、ギゾーと福沢の言葉から次のように定義しました。「諸要素が、複合して各々バランスを得ているのが文明なのだ」。福沢は文明を海、制度や文学などの諸要素を河だと表現しています。福沢は、西洋の社会に日本の未来を見た人物です。しかしその文明国が成す行動に至っては、「西洋人の現実に行なうことはひどいものだ」と批判的でした。一つの思想や制度に拘らない姿が、福沢の姿勢を海のように思わせるのでしょうか。そのような福沢に、私は憧れます。政治家だけでなく国民一人ひとりに、海の波のように柔軟な生き方が必要だと感ずるのです。 日本人は「人間の外的な条件の発展」に偏り、内面生活をどこかに忘れて、現在まで流れてきたようです。福沢の文明論を知ると、幸せとは、何かという素朴な疑問が生まれます。「物の貴きにあらず、其の働きの貴きなり」の福沢の考えは、高度に進んだ消費資本主義の現代では、どこか無力な言葉のように思えてならないのです。しかし、丸山真男が福沢の文明観を「civilizationをでき上った一定の形態としてではなく、まさにcivilizeしてゆくことというふうに、動詞の名詞化としてとらえている」と言ったことに私は希望を感じます。 どんな時代であっても文明が能動的に変化してゆけば、その時代を内包する強い概念が生まれるのだと確信しました。 現代の政治と福沢 「西洋の諺(ことわざ)に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり」。 福沢の著作を読んでいると、不意にドキッとすることがあります。 福沢の言葉に「古習の惑溺」があります。政治が理想からの妥協、「古習の惑溺」から逃れられない世界であることを、福沢は強く意識したはずです。福沢を政治ではなく教育の道に赴かせたのは、この惑溺の枠を超えるためでもあったように思えます。福沢は、政府を毛嫌いしていた訳ではありません。「政府主義」を嫌ったのです。政府が、政治よりも権力争いに拘っているのが、福沢には我慢ならないことだったのでしょう。 未だに日本の政治が「古習の惑溺」だと感ずるのは、国民生活に関する報道以上に政治家の個人的事件や、権力争いに関する報道等を聞いている時です。最近では、世襲問題や政権交代問題が取り沙汰されていました。 政治家の家に生まれたことで、努力なしで政治家になるシステムは変えるべきだと私は考えます。そこには、福沢が嫌悪した「惑溺」、言い換えると「土着性」がもたらす様々な弊害があるからです。ある政治家が、選挙に出る権利は等しく誰にでもあると言いました。確かに、一見腑に落ちる感じはありますが、どこか言い訳めいた「私的エゴ」が、見え隠れします。それは、日本の選挙や政治が、日本国民全体への配慮ではなく、「地域」や「私的エゴ」によって培われているように思えてならないからです。 日本の政治には、今でも「土着性」が大きく反映されていると聞きます。政治家の出身地域の人々の関心が、「仲間意識」で固まることです。日本人が気分や関係の濃さで政治を推すことは、世襲議員とも関係があるのでしょう。親が政治家であるために、人々が「近しい」人間だと考えるためです。 「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」。この福沢の言葉は、百年経った今でも、的を射たもののように思えます。しかし「国民(ネーション)」とは何かを問われたら、私はどれだけ説明できるか分かりません。現在の政治や国民のあり方を、ただ感情的に批判することはできます。批判よりも、国民のあり方を考え政治にどのように関わってゆくかを現実のものにしない限り、福沢の「国民(ネーション)なし」の真の意味が見えてこないでしょう。 加藤周一は福沢の著作を分析し、「戦前から戦後の社会への現代日本の移行をも説明し、戦後民主主義を根拠づける」ものだと書きました。しかし今の日本人の政治への関わり方は、「何をしてくれるか」という意識に偏り、「国民が成すこと」よりも受身なあり方です。個人が「生きる」ことと、「政治」は、全く別のものだと私は考えます。政治は制度でしかありません。人が制度を求めるのは秩序がないと混乱するからです。本来は、人は制度を疎ましいと思うのが普通ではないでしょうか。 選挙があるたびに国民は不満を政治に見つけます。しかしその不満は、内からの気分に左右されているようです。その不満のやってくる方に目を向けるのではなく、「情動」として政治判断をする傾向が、強く働くのです。それは政治家のパフォーマンスやマスコミの報道に流されるところからも窺われます。 加藤周一は『学問のすすめ』と『文明論之概略』を読んで、福沢の「民権」と「国権」の考え方を明らかにしています。国権以上に民権が優越する政治を、理想にしている福沢の考えに、加藤は敬意を表しています。ですが、現代の民権は、どうでしょうか。自らの幸福を求めるだけが、民権になってはいないでしょうか。一身独立した人間が、政治や行政の成すことを冷静に観察して、その権力を行う者たちが自ずとバランスをとるようにすることが、福沢の言った「民権の優位」ではないかと考えます。 極論ですが、政治は国民と対立した概念だと私は考えます。個々の国民の幻想を、政治は叶えてはくれないでしょう。それは政治が「私的なもの」に下りてくるのではなく、冷徹な力を「公的なもの」のために行使する機構であるからです。福沢の「政府は一つの機関に過ぎない」という考えが、現代でも有効で、普遍的なものであることが分かります。 福沢の政治観を考えてきて、確信が持てることがありました。それは自分を取り巻く環境に流されず、自己の目に忠実になることだということです。自己に惑溺することではなく、複眼的に自分や時代を捉える意思のあり方だと知ったのです。「他なる目」と「動く目」の獲得こそが、新たな時代を切り拓いてゆく力だと。
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