中西美沙子
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誰も座らない椅子

袴田優里子(高1)

 今、我が家の食卓には、二つの椅子がある。母と私の椅子。
 私には父が、いない。
気がついてみるといなかった。
幼い頃、父と母は離婚していた。
ずっと私は、見えないもうひとつ椅子を探していた。
そしてその椅子に座るべき人を求めていた。
我が家の食卓にはいつも、父の姿はなかった。
  母は私が二歳になる前から祖父母の家に住み始めた。
住民票も移し替えずに。
父が迎えににきてくれる日を待ち続けた、と母は言う。それは三年間続いた。

  最近、家族についての雑誌を読んでいて、こんな文章に出会った。
「自分にとっての家族の原形は、大久保に借家住まいをしていた小さな二階家の、茶の間あたりに沈んでいるらしい」。
これは作家の黒井千次さんの言葉である。この後には、食事時には家族それぞれ、ちゃぶ台の周りに座る位置が決まっていた、と続き、「喜怒哀楽のすべてを貫くものがあったからこそ、茶の間の食卓が家族の原図を生み出しのであったろう」と書かれている。
  私が祖父母の家に住んでいた時も、食事時に座る位置はそれぞれに決まっていた。私は、そんな風景を思い出して、この文章にひかれたのではないだろうか。
食卓では、いろいろな会話が交わされていた。私は、祖母に、食事の場で、貧乏ゆすりをしないことや、飲み物を飲む時にはお箸を置くことを教えられたのも、食卓だった。

  私はhouseとhomeの意味の違いを、時々を思い出す。houseは「住宅」で、homeは「我が家」。私は、「我が家」という言葉を「心の帰る場所」として理解した。
私には帰る場所が三つある。母の家と父の家と、祖父母の家。私が本当に帰るべき場所は、そのどこなのだろう。
ちゃぶ台を真ん中にして並んでいた家族の姿を拠り所として、黒井さんは自分の家族をつくってきたのだろう。私もまた、七年間共に暮らした、祖父母の家で囲んだテーブルと椅子の形が、家族の原形となっているのだろうか。
  でもなぜか、その食卓であるテーブルには、ひとつだけ空いたままの椅子があった。誰も座ることのない椅子がぽっかりとした空間を残してそこにあった。
今から思えばそこには、いるべき人の不在が象徴としてあったのかもしれない。
  五歳の時、その「不在の人」が私に会いにきた。
  遊園地は、私が父と一緒に行った、一番古い思い出の場所だ。「いつもと違うところ」に連れて行ってもらう感覚は、私をどきどきさせた。
身長が小さくて普通の乗り物に乗れない私を、父は、ゲームセンターにある小さな乗り物に乗せてくれた。父が私の側にいて、じっと私を見ていたことを覚えている。
その日見た、その景色から、私と父との思い出は始まる。だから私は、どんなに微かなものになろうと、その記憶を大切にしたい、と思うのだ。

  小学生の頃、父は会う度にレストランや喫茶店で、たくさんの話をしてくれた。それは何気ない会話とは違って、国語辞典まで用意して始められるものだった。
例えば、動物の家族の中にも、人間の家族の中にも、父親と母親と子供が当たり前のようにいるのだ、と長い時間をかけて話してくれたことがあった。
それから、地上を走る動物を捕らえる大きな鳥は、獲物が走る距離を考えて少し手前に目標を定める、という話。
植物は、日当たりがよく、水が充分に得られるだけではなく、風通しも良いとこでないと育たないという話。
  父は、自分が家庭での中で果たせない役割を、短い時間の中で果たそうとしていたのだろうか。
だから父は、許された限りある時の中で、できるだけたくさんの時間をかけて私と向き合ったのだと思う。そうして父は、父なりに、親として私に伝えるべきことのために、私と関わってきたのではないだろうか。

  私が小さい頃、母は一生懸命働いてくれていた。でも、収入はとても少なかったらしい。「一枚百五十円のハンカチを買うことにさえ、ためらいがあった」と母はよく言う。私はそんな母をよく知っていたから、欲しいものがあっても言葉にすることはなかった。
  赤い水玉柄のワンピースを買ってもらったことを覚えている。幼稚園の頃のことだ。母が私を叱った時、「もう私は何もいらない」と言ってゴミ箱に投げ捨てたのが、ハンガーにかけてあったのそのワンピースだった。
その頃、私が持っているものと言ったら、数えるほどしかなかったように思う。その中で、そのワンピースは、私の一番大切なものだった。
私はその少ない持ち物の中からでも、大切なものを見つけ出せていた。母の言った「両親は少ない収入をやりくりして、自分たちきょうだいを育ててくれた。いろんなものを買い与えてもらったりはしなかった。
けれど、一生懸命働く両親の後ろ姿から、もっと大切なものをたくさんもらった」の言葉。昔、母のこぐ自転車の後ろに私はよく乗った。その背中から、母のその言葉を感じていた。それは、たくさんのものを買ってもらった記憶よりも、ずっとずっと大切な思い出だ。

  学校へ行きたくなくて辛かった時期があった。母は、私が帰ってくると温かい紅茶を入れてくれた。少しすっぱいそれは、芯から温まるように、私を安心させてくれた。張りつめた意気込みのようなものが、全身から抜けてゆく瞬間だった。
その頃には、なんだかとても寂しくて、幾度も八つ当たりのように、母と喧嘩をした。少し気持ちが落ち着くと、母は私を夜のドライブに連れて行った。夜の静けさの中で私は、いつの日か母の言った「生きていてくれえさすればいい」の言葉を心の中で繰り返していた。
  最近、ニュースの中でその言葉が聞こえたような気がした。
  それは今騒がれている、北朝鮮による拉致問題のニュースだった。涙ぐむ親御さんたちの姿から、その言葉が伝わってきたように思えたのだ。
私はその親御さんたちの中でも、横田めぐみさんのご両親の姿に心をつき動かされた。
  横田さん夫婦は娘の死を知らされて、娘がどのように生き、そして死んだのかを確認したい、と言った。
私はその言葉を漠然と感じ取っていたけれど、もう一度、「なぜ」と問いかけてみた。
  二人は、現実から何度も目をそらせたいと思っただろう。絆を繋いでいた相手が、いなくなってしまったのだ。つながりが深いほど、その空虚感や悲しみは、大きいのではないだろうか。
横田さん家族の絆は本当に強いものだったからこそ、横田さん夫婦は考え続けたのだと思う。そして、家族や親子のあり方、夫婦のあり方までも真剣に考えることになったのではないか。
たとえそれが、どんなに辛いことであったとしても。

  こんな例に例えては失礼なのかもしれないけれど、私は最近、治療した歯が痛くて辛い思いをした。さらに治療をして歯の痛みは治まったけれど、その時の辛さは今も心に染み込んでいる。
初めて、自分の歯を大切にすることの必要性が実感できたのだ。
  このような身体の痛みよりももっと深い痛みを、横田さん夫婦は感じてきたのではないか。当たり前にそこにあると思っていた人が、手の届かない、場所さえも、生存さえも分からない場所に行ってしまった。
その時、その人がかけがえのない人だったのだと、言葉だけではない強さで、感じ取ったのだろう。
  私が見えない父の姿を目で追っていたように、横田さん家族にも、めぐみさんの姿があるのではないだろうか。
彼らの瞳には「もう一人の家族」が映っているように、私には思える。
  横田めぐみさんのご両親は、今回の拉致事件によって、朝鮮人学校の生徒に暴力をふるわないように、とも言っている。
そのことは、拉致と同じこと、自分たちが受けた痛みと同じものだから、と言っているのだ。人の痛みというものを、身をもって知ってきた人なのではいか、と強く感じた。
  横田さん夫婦は自分たち家族の問題を個人レベルではなく、もっと大きく人間の問題としてとらえている。その視線は、たくさんの悲しみと向き合って得た優しさの上に築かれているように、私には思える。

  今私は、自分の両親がそれぞれの人生において妥協ではなく生きた、ということが少しだけ分かる。形の上では、失敗してしまった。しかし、父も母も私に、人と人との絆を見失わないようにと、真摯に伝え続けてくれている。
違った場所からではあるけれど。その二人に支えられてきて、今の私はいる。
  私には「未来家族」がある。今やっと気付いた、未来の家族だ。
  私にとって大切に思う一枚写真。母に抱かれて、まだ表情さえ生み出せない幼い私と、満面の笑みを浮かべる母の写真。
写真の好きな父が撮ったものだと、すぐに分かる。私が家族と信じる人たちが、その瞬間に微笑んでいるのだと分かる。父と母が大切にしようとしたその空気が伝わってくる、一枚の写真。
私は、その写真のような空気を私の家庭の中に、漂わせていたい。
  食卓には、椅子を五つ置こう。祖父母の家の食卓と同じように。五つの椅子は並べられ、それぞれの座る場所が位置付けられてゆく。そこには、空いた椅子はないのだ。

産経新聞社 主催
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